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人間やめても君が好き  作者: 迷子
四章 孤高の氷狼
93/141

――それは、とても楽しい日々だった


(ああ、こりゃ夢だな……)


 意識がぼんやりとしながら、暖かく、ふわふわとした空気に包まれている。

 そんな心地よい空間に、エドガーは直感的にそう判断できた。


 うとうととした眠気にいつまでも浸っていたい。そんな誘惑に、エドガーは耐えられなかった。


 このまま、この幸せな時間を味わおう。そう決めた途端、トプンッと、より深いどこかに入り込んだ感触があった。

 目を瞑っているエドガーの頭に、何かが流れ込んで来た──




 ♦︎   ♦︎




 ――僕の覚えている一番古い記憶は、とても痛い思いを味わっている所だった。


 なんでそうなったのかは、覚えていない。転んで怪我をしたのか、小さかった僕を襲った何かに傷つけられたのか。たぶんどっちかだと思うけど、分からない。


 お母さんも、お父さんも居ない。兄弟も、どこにも居ない。ただ一人で痛みに苦しみながら、助けを待つことしか出来なかった。


 ――痛い、痛いよ……。

 ――誰か、助けて……。


 弱った僕は格好の獲物だ。声を出せばすぐさま誰かの糧となる。

 それだけは分かっていたから、ただずっとその場に隠れて我慢していた。


 だけど、それも限界に近づいて居た。段々体に力が入らなくなって、痛みも感じなくなる。体が重いのに、何故か頭はぼうっとして、気持ち良いとさえ感じる。


 ああ、僕はここで終わりなんだ。

 漠然とそう感じて、しょうがないかって思っている自分が居た。

 実際、このままだったら僕はここで死んで居たと思う。


 でも、意識が遠くなって、自分がこのまま消えちゃいそうになっていたその時、ガサリと茂みを搔きわける音が聞こえた。


『なんじゃお主、迷子にでもなったか?』


 それが、ご主人であるお爺ちゃんとの出逢いだった。




 ♦︎   ♦︎




 僕を助けてくれたのは、人間の雄でずいぶんと歳を取った老人だった。

 獣の皮で作った服を来て、自然に溶け込もうとしているように見える。


 狩人……というやつ、なんだと思う。


 普通に考えれば、僕達の敵だ。

 そんな彼が僕を助けてくれたのは、何故なのだろう。


 弱っている僕は、彼にとってまたとない獲物だろうに。

 僕がまだ子供だったからか。僕を都合の良い道具にするためか。ただの気まぐれか。

 案外、全部当たっていたのかもしれない。


 だけど、彼の考えがどうあれ、僕が素直に従うなんていうことはなかった。

 当たり前だ。手当てされたからといって、簡単に服従するほど、僕は安くない。


『ワンワンワンワン! ワンワンワンワンワンワンワンワン! ウオワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワン! ワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワ──』

『やかましい! 大人しくせんかいっ! ったく、助けてやったというのに、少しは有り難く思わんか……』


 威嚇に吠えまくったら、ご主人は辟易とした様子で顔を顰める。

 勝った──と、僕は幼いながらに思った。一族の誇りを守れたと、優越感に浸っていた気がする。


 だけど、ご主人はブツブツと文句を垂れながら僕の世話をし続けた。

 あれだけ吠えて噛みついたら、捨ててもいいくらいなのに……。


 それでも、ご主人が僕を放り出すことはなかった。

 やっぱり僕を道具にするためなのかと、最初はますます不信に思っていた。でも不思議なことに、彼の行動には……愛情のような物を感じた。


 家族から離れ、一人になっていた僕にはとても暖かいものだった。その心地よさに、抗えない程に。


 毎日手ずからに貴重な食料を分けてくれて、手当てまでしてくれる。次第に、僕も彼に心を許していった。これだけの世話を受けていながら、いつまでも反抗的なのも恩知らずだ。それこそ、僕の一族の沽券に関わる。


『よし、これでもう大丈夫じゃろ。さっ、もう好きな所に行ってもいいぞ』

『……クゥーン』


 傷が完全に塞がった頃には、僕はすっかりご主人に懐いていた。

 自由にしてくれるというのに、僕の方が離れたくないと思うほどに。


『なんじゃ。せっかく治ったのに、行かんのか?』

『クゥーン……』

『そうか……なら、ここに住むか?』

『――ッ! ワン! ワン!』

『本当に住むのか。物好きな奴じゃの……それなら、名前でも付けてやるか。いつまでも名無しというのもなんじゃしの』

『ワン! ワンワン! ワンワンワン!』


 名前をくれると聞いて、嬉しかった。

 僕達には、あまり必要のないものだけど。

 ここに居てもいい。そう言ってもらえているみたいだったから。だから、どんな名前でもいい。それを貰えるということが大事だった。


『ポチでいいじゃろ。面倒じゃし』

『――ウワンウワンワンワンワンワンワンワンワンワンオオオオオオオオオオオオオワンワンワンワンワンワンワンワンワン!!!!!!』

『なんじゃお主!? 気にくわないとでも言いたいのか!? 生意気な!』


 誇りにかけて、なんとしてもそれだけは阻止しなくちゃいけない気がした。

 だけどこの日が、本当の意味でご主人が、僕のご主人になった日だった。




 ♦︎   ♦︎




 結局、名前は変えられなかった。

 むしろ僕の抗議は、ご主人を頑固にさせてしまったらしい。どれだけ吠えようと、何度噛み付こうと、改名はせんと意地にさせるだけだった。不覚である。


 ――だけど、僕がポチとなってからの日々は、まるで宝物のようだった。


『ポチ、それは食べてはいかん! まだ熟成が済んでおらん!』

『ワゥ……』

『物欲しそうな目をしてもダメじゃ。ここで食べると後悔する。どうせなら旨いものを食べたいじゃろ? 少しの我慢じゃ』

『ワォオオウ……』

『そう、分かれば良いいんじゃ、分かれば……食うなつったじゃろうがぁあああああ!』



『ポチよ。今日は良い天気じゃの』

『ウワォン……』

『なんじゃ、天気が良いからって寝てばかりか。こんな時こそ狩りに……まぁ、いいか。たまにはな』



『まだ……まだ……よし! いけぇ、ポチ!』

『うォオオオオオオオオン!』

『うはははは! 良くやった! 今日はご馳走じゃ!』

『ワンワンワンワンワン!』



『くっ、しくじったか……くだらないミスを……』

『ヴルルルルル……!』

『斯くなる上は……ポチ、突っ込め!』

『ウォオオオオオオオオオオオオン!』

『よし、そのまま抑えて時間を稼げ! 儂は先に逃げる! 怪我するなよ!?』

『ウォンンンンンンンンンンン!?』



『ヴルルルルルルルルルルルル! ワンワンワンワンワン!』

『あ痛たたたたたたた!? 何をする! 助かったんじゃからいいじゃろ!』

『ウォンウォンウォンウォンウォンウォン!』

『いや、あの時はああするしか……分かった分かった! もう二度と同じことはせん! とっておきの肉を出してやるから!』


 ――それは、とても楽しい日々だった。


 美味しいご飯を食べた。

 一緒に気持ちよくお昼寝もした。

 狩りを手伝って大きな獲物を仕留めた。

 時々、ケンカもした。


 いろんな、いろんなことを、ご主人と一緒にした。

 だから、毎日が楽しかった。


 家族がいないお爺ちゃんと、家族と離れた僕で、たった二人だけの生活。

 でも、毎日がキラキラ輝いていた。


 ずっと、ずっとこんな日が続くって、僕は疑っていなかった。

 永遠に、この楽しい時を過ごしていくんだと信じていた。


 だけど、この幸せな時間は、外からあっけなく崩された。


『……山を出て行けじゃと?』


 ある日、山の外から鎧を来た人間がいっぱいやってきた。


 良くわからないけど、この山で貴重な石が沢山見つかったらしい。それを求めて、争いを始めるそうだ。


 危ないから出て行けと、鎧の奴らは言う。そう言いながら、山を荒らしに来るそいつらが、僕はとても気に入らなかった。この山は僕とご主人と、その友人達の縄張りなのに。山の平穏を守りながら、ずっと暮らしてきたのに。


 でも、そいつらはもうまともじゃなかった。欲と怒りに塗れた目をしていた。

 逆らったら、僕達まで酷い目に合う。だから、こいつらには関わらない方がいいって思った。ご主人と一緒に山を降りて、また別な場所で暮らせばいいって、僕は思っていた。


 でも、ご主人は違った。

 ご主人は、この山が大好きだったから。

 だから、山を荒らすそいつらがどうしても許せなかった。


『この山の価値も分からず、目先の利益に飛びつく亡者どもの言うことを聞く道理はない! 儂は絶対に出て行かんぞ! ここが儂の住む場所じゃ!』

『……忠告はした。どうなっても知らんぞ』


 そう言って、そいつらは山を降りていった。

 そいつらにとっては、どちらでも良かったのかもしれない。冷たい目でお爺ちゃんを見て、すげなく去っていった。


『……ふぅ。まさかこんなことになろうとはの』


 肩を怒らせていたご主人も、しばらくすれば気落ちした声を出していた。

 心配して側に寄った僕に、悲しげな笑みを見せて、頭を撫でてくれた。


『ポチよ、ここは戦場になる。じゃが、儂はここから離れん。この山を荒らされて、みすみす放っておけるか。じゃが、儂の我儘にお前を巻き込む訳にはいかん。お前は山を降りなさい』

『ウォワン! ウワン! ゥワン!』

『……まさか、お前も残る気か? お主も分かってるじゃろ? ここは危うくなる。死ぬかもしれんぞ?』


 バカだな、ご主人。

 そんなこと、ご主人よりも分かってるよ。


 でも、ご主人を置いて僕だけ逃げる訳ないじゃないか。

 ご主人と僕は、いつだって一緒だ。

 危ないからって、僕だけ逃げる訳ないじゃないか。


『……本当にバカじゃの。じゃが、ありがとう』


 礼なんて要らないよ、バカなご主人。

 大丈夫、僕達ならなんとかなるさ。

 だって、今までだってそうしてきたんだから!


 ――僕は、本気でそう信じていた。


 僕達なら、きっとなんとか出来るって。今考えれば、そんな訳ないって分かりきっているのに。きっと、あいつらをやっつけられるって、そう思ってた。


 でも、僕のそんな甘い考えは、あっけなく打ち砕かれた。


 ――その数日後に、鎧を着た人間の群が、数えきれないくらいやってきた。


 あまりの数の違いに、勝ち目なんかないってすぐに分かった。

 僕は怖くて震えて、ご主人も顔が引きつっていた。


 だけど、それでもご主人は逃げなかった。

 森に隠れながら、山を荒らす奴らを襲って、逃げ回って、必死に抵抗した。僕もそれを手伝って、何人かを噛み殺した。


 何日かは上手くいっていた。でも、それは最初だけ。すぐに追い詰められて、僕とご主人は絶命の危機に陥っていた。


『ウワン……!』

『ポチィイイイイ!』


 まず僕がしくじり、体を斬られた。

 その場から動けなくなって、そのまま殺されるしかないって、すぐに分かった。

 やっちゃった、って思った。急いで逃げないといけないのに、僕が怪我をしたせいでご主人の足を止めてしまった。


 でも、僕は同時にほっとしていた。

 しくじったのが僕で良かった。ご主人が生きてくれるなら、それでいい。これで助けてくれたご主人に恩を返せる。僕は離れたご主人を見送りながら、刃が振り下ろされるその時を受け入れていた。


 だけど、僕はバカだった。

 ご主人のことは、十分知っていたはずなのに。本当なら、怪我をしても、諦めずに走って逃げなきゃいけなかったのに。


 大雑把で、いい加減で、適当で、でも、狩人として誇りを持つ、本当は優しいご主人。

 そんなご主人が、傷ついた僕を放って置けるわけがなかった。


 ――ご主人は、僕を庇って槍で貫かれた。


『ぐぬぅ……!』

『ワォ……! ワォ……ォォン!』


 傷ついた体では、情けない声しか出なかった。体を動かして、ご主人の側に寄ってあげることも出来なかった。


『チッ、クソ爺が! 手こずらせやがって!』


 横たわり、血に塗れながら、僕はその光景を見ていることしか出来なかった。

 もう、ご主人に歯向かう力はないというのに……。


 倒れたご主人に、そいつらは何度も槍を突き刺した。


 ――グプッ、ズプッ、ズチャッ、グチャッ!


 ご主人の体に、何度も何度も、八つ当たりのように、剣と槍を突き刺す。

 僕の耳に、ご主人の体が崩れていく音が、こびりついて離れない。


 ああ……! やめてっ、やめてくれ……!

 それ以上、ご主人を虐めないで……!


 止めたいのに、もう僕は声すら出せない。

 パクパクと口を動かすのが精一杯で、その残虐な光景を見ていることしか出来ない。


 狩りをする時は、獲物を無駄に苦しませることはしない。殺したその命に敬意を持って、その命を頂くのだ。殺しを楽しむことは、狩人のやることではない。


 こいつらがやったのは、狩りではない。ただの憂さ晴らしだ。自分たちが気持ち良くなるために、ご主人を必要以上に痛めつけたのだ。


 誇りのかけらも無い……なによりも醜い、殺戮だ。


『おい、もういいだろ。行くぞ』

『待てよ。まだ犬が生きてるぞ』

『どうせすぐ死ぬだろ。それよりも、向こうが騒がしい。早く援軍に行ってやらねえと』

『チッ、分かったよ』


 そいつらは、僕にトドメを刺さずに去っていった。

 去り際に、ご主人の体に蹴りを入れて。


 カッと、死にかけの頭が熱くなった。

 でも、僕の体は動かない。ご主人の側に行ってあげたいのに、どうしても、体が動かない。


 ……なんで、僕はこんなに弱い?


 ご主人があんなに傷ついているのに、大好きな人が傷ついているのに、近寄ってあげることも出来ないなんて。


 自分の情けなさに。無力さに。涙が溢れる。

 この役立たずめと、僕は僕を責め続けた。ご主人を痛めつけたアイツらと、それを見ているしか出来なかった自分を、恨み続けた。


 そうしたら、僕の頭に、何か暖かい物が被せられた。


 ああっ……!

 この感触を忘れられる筈がない……!


 それは、ご主人の手だった。


『……ポ……チ……』


 どうして、動けるの……!?

 僕なんかよりもずっと、痛い思いをしているのに……!

 なんで……!


『痛い……じゃろ……すまな……かった……巻き……こん……儂の……せ……』


 違う……。

 違う違う違う違う違う違う違う違う違う!


 痛いのは僕じゃない!

 ご主人の方だ!

 ご主人の方が、ずっとずっと痛いのに!


 ご主人のせいなんかじゃない!

 僕のせいで、ご主人がこうなったのに!

 なんで……なんでなんでなんでなんでなんでなんで!

 なんでそんなこと言うの!?


『ありが……とう……おまえ……おか……げ……儂……寂しく……なか……楽し……かっ……』


 違う!

 違う違う違う違う違う違う違う違う違う!


 お礼を言うのは、僕の方なのに!

 楽しかったのは、僕の方だ! 僕の方こそ、ご主人のお陰で、幸せだった!


 救われたのは──僕の方だったのにッッッッ!


 お礼を言いたかった。そして、謝りたかった。

 だけど、声が出ない。ご主人が頭を撫でるのを受け入れるしか、出来ない。そんな自分が情けなくて、申し訳なくて、涙が溢れる。


 そしてとうとう、ご主人は動かなくなった。

 体も、すっかり冷たくなった。

 あの皺だらけの、でも、何よりも暖かい手が……どこにも無くなってしまった。


 …………ぁぁぁ。

 …………ぁぁぁぁぁああああ!


 薄れゆく意識の中で、僕はずっと考えていた。


 なんで……どうして、こうなってしまったんだろう?

 僕はただ、この山でご主人と暮らせていれば、それで良かったのに。

 それだけで、良かったのに……!


『……ヴ、ヴヴ』


 ……アイツらだ。

 ……アイツらがやってきたから、こうなった。


『……ヴヴヴ、ヴヴヴヴヴ!』


 ご主人、痛かったでしょう?

 ごめん、ごめんね。

 痛かったのに、僕の為に、体を動かして……。

 それなのに、僕は、何も出来なかった。


『……ヴルルルル! グルルルルルルルル!』


 僕に……力があれば。

 ご主人に、無理をさせることもなかった。

 ご主人が、こんなに傷つくこともなかった。

 僕が、足を引っ張りさえしなければ……こんなことに、ならなかったのに!


『……ウォ……ウォン……ヴォオオオオオオオオオオオオオン!』


 なんでもいいから。誰でもいいから。

 僕に、力をください。


 自分の身を、守れるだけの力を。

 ご主人を、守れるだけの力を。

 この山を、守れるだけの力を。


 アイツらを──皆殺しに出来る力を!


 その為なら、僕はどうなっても構わないから!

 僕の体も、魂も、全てを捧げるから!


 ――――だからっ!


『――ヴォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオン!!!!』


 何かが、僕の中に入り込んだ感触があった。

 それが何なのか、僕には分からない。だけど、それは僕に力を与えてくれた。


 傷ついた身体が、癒され、メキメキと大きくなっていく。

 自分が全く違う何かに、変わっていく。でも、僕はそれを怖いと思わなかった。

 望んだ物が手に入ったのだと、分かったから。


 だから、思う存分、力を振るった。


『なんだこの雪は……! 一体どうなっている!?』

『ありえない! 自然な雪じゃないぞ……!』

『待て、アレは……アレはなんだ!?』

『なんだ……なんだあの化け物は!?』


 そいつらは、すぐに見つかった。

 そして、僕は躊躇うことなく牙と爪を振るった。

 なんだか、いつの間にか数が増えて居たけど、関係ない。山を荒らす奴らは、一人残らず殺し尽くした。

 ご主人を傷つけた奴らは、執拗に。ご主人にやったことと、同じ目に合わせてやった。


 気づけば、全てが終わっていた。

 何もかもが、変わっていた。


 ご主人が大事にしていた山は、真っ白に染まっていた。

 その白い山に、沢山の屍が転がっていた。


 全部……全部、僕がやった。

 ご主人の大切にしていた物も、全部、僕が変えてしまった。

 あの緑豊かな、綺麗な山を真っ白に変え、そして、汚れた血で染めてしまった。


 少しだけ、後悔した。でも、僕は我慢できなかった。ご主人を酷い目に合わせた奴らを放っておくなんて。そして、あの綺麗な山をそいつらに荒らされるなんて、許せなかった。


 どうせ荒らされるなら僕の手で、変えてやろうと思った。


 これを見たら、ご主人は僕を怒るかもしれない。ちょっとだけ、怖い。想像しただけで、クゥンと情けない声が出てしまう。


 だけど、やってしまったことは、もう戻らない。

 だったら、ご主人が喜びそうなことをしよう。


 姿は変わったけど、ご主人が大事にしていたこの山を、僕が守る。

 それが、ご主人に仕えていた僕のやるべきことだろう。


 たった一人になっても、この山と……そして、僕達が住んでいた、あの家を守り続ける。

 ご主人がいつ帰って来ても、困らないように。

 また、あの楽しかった日々を過ごせるように。


 あぁっ……だから……お爺ちゃん。


 また会えたら、僕を褒めてください……。

 またあの暖かい手で、頭を撫でてください……。

 それまで、僕はいつまでもこの場所を守り続けるから……。


 一人になっても、僕はここで、待ち続けるから……ッ!


 だからっ――――!




 ♦︎   ♦︎




「今のは……」


 重たい瞼を開けて、エドガーは掠れた声で呟いた。

 ゆっくりと体を起こし、ブルリと頭を振って、ぼうっとした意識を目覚めさせる。


 エドガーはグルリと首を回し、周囲を観察した。

 そこは、年季の入った小屋だった。

 壁や床のシミを見れば、建ててから随分と時間が経っていることが容易に分かる。しかし、同時に掃除がゆき届き、大事に使われていたことが伺われる。


 中央にテーブルがあって、その上には花の入った花瓶が置かれている。調理台には数枚の食器に、ペット用に作られたような器がある。そして部屋の隅には、手入れの行き届いた鉈や弓が立てかけられていた。


 ちょうど、この山を登る前に立ち寄った、猟師小屋に雰囲気が似ていた。


「……ふむ」


 思案げに首を傾げ、エドガーは毛布を剥がしベッドから飛び降りる。このベッドもまた使い込まれた様子があるが、しっかりと洗濯がされていて清潔であった。


 ますます不思議そうな顔をして、エドガーはもう一度周りを見回してから小屋の外へ出た。扉を開け、外の景色を見て、驚嘆の表情を浮かべる。


「なんだこりゃ……?」


 エドガーが驚くのも無理はない。小屋は、氷の壁に閉じ込められていた。

 一周してみるが、何処にも外へ続く道がない。完全に塞がれている。何があったらこうなるのかと考え、氷の冷たさにブルリと体を震わせる。


 考えても仕方がないかと、エドガーは思った。どうせ分かりっこない。それよりも、どうやってここから出るのかを考える方が先決だろう。


 ──ピシッ!


「おっ?」


 ぶち破って抜け出すかと考えた所で、ちょうど小屋の扉の前にある氷に、ヒビが入った。そのヒビはピシッ、ピシッと広がり、ガシャンと音を立てて砕ける。


 ちょうど大人一つ分の隙間が、エドガーの前に出来た。まるでここから出ろと言わんばかりの現象に、エドガーは少しだけ悩んで、ピョンピョンとその隙間を潜る。


 エドガーが通り抜けると、またピシッ、ピシッという音が聞こえる。振り返れば、新たに氷が発生し、その隙間を埋めなおしていた。ものの数秒も経たないうちに、小屋は氷に閉ざされる。


 ほうっ、と感心した声を上げ、エドガーは目を前に戻す。明らかにおかしい場所だ。何かがあるに違いない。すぐに原因を調べなければ。


 そう思っていたエドガーだったが、それを忘れるほどの衝撃が、すぐ側にあった。


 ──【永久氷狼(コキュートスウルフ)】が、測るような目を向け、エドガーを見ていた。




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