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人間やめても君が好き  作者: 迷子
四章 孤高の氷狼

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この恨み、晴らさでおくべきかぁああああ……!


 眼前に立つレティを見て、ネコタは苦々しい顔をする。


「せっかく逃げ切ったのに、また……エドガーさん、どうし――」

「おぅるらあああああああああああああああああああああああああああああ!」

「エドガーさんッ!?」


 止める間もなく斬りかかったエドガーに、ネコタはぎょっと目を剥いた。

 巻き舌で叫び、狂ったようにエドガーは突っ込んでいた。目が血走り、涎を飛び散らせながら襲い掛かる様は、まさしく獲物を前にした暴漢のままだった。


 大男であるオリバーには逃げの一手だったというのに、妖艶な美女となったらこれだ。もはや信用が地の底まで落ちていたと思ったが、まだ下があったのかとネコタは慄いた。一体どこまで堕ちれば気が済むのかと、その果てしない下劣さに恐怖を抱く。


「ふふっ、せっかちねぇ。がっつく男はモテないわよ?」


 悪漢が迫ってきているというのに、レティは余裕を保っていた。

 優雅に腰元から何かを引き抜くと、エドガーに向かって腕が霞むほどの速度でそれを振る。剣も槍も未だ届かぬ間合い。だが、レティの攻撃はエドガーに届いた。


 ――バチイィイイイイイイイン!


「うんぎゃあああああああああああああああああ!?」

「エドガーさん!?」


 悲鳴を上げて蹲るエドガーを、ネコタが信じがたい気持ちで見た。

 明らかに武器が届くような距離ではない。正体不明の攻撃もそうだが、エドガーがそれを受けて苦しんでいることが何よりも衝撃だった。


 口は悪いがエドガーは紛れもない実力者。それも速度を武器にする剣士である。そのエドガーが、まともに攻撃を受けていることが信じられなかった。


「エドガーさん! 大丈夫ですか!?」

「お、おおう、大丈夫だっ。ちょっと効いたけどな」

「良かった。それにしても、一体何が……」


 とりあえずは無事なようだと安心し、ネコタはレティに目をやる。そして何が起こったのかを理解した。

 レティは変わらず、色気のある姿勢でそこに立っていた。しかし、先ほどまでと違う箇所が一つある。

 レティの右手には、黒い鞭が握られていた。


「鞭! そうか、あれで……!」


 剣より広い間合いを持ち、その攻撃速度も遥かに上回る武器。あれならば、エドガーの動きを捉えることも出来るかと納得する。


「鞭の達人という訳ですか。だとしても、エドガーさんが避けられない程なんて信じられない」


 だが、あの人にこれ以上に相応しい武器もないだろうと、ネコタは思った。

嬢王(クイーン)”という通り名を持つ、妖艶な美女である。そんな女性から鞭で叩かれるなど、その筋の人からは垂涎物だろう。


 しかし、そんなイメージ通りの生易しい物ではないとネコタは察していた。


 ネコタの拙い知識でも、武器としての鞭の凶悪さを知っている。刑罰として鞭が使用されても、そのあまりの痛みがゆえに既定の回数に達する前にショック死するのは知られた話だ。


 その凶悪な武器を、確実に当ててくる相手。見た目以上に恐ろしい相手なのだと、ネコタは冷や汗を流した。

 

 ググッと重そうに体を持ち上げ、エドガーは怒ったように言った。


「バ、バカ言えっ。ただの鞭だったら俺だって避けられるっての!」

「え? それはどういう……」


「あら。相変わらず根性だけはあるのね。まぁいいわ。動けなくなるまでたっぷりと遊んであげる」


 声を弾ませ、レティは鞭を振るった。


「――チィッ!」


 ヒュパン! と。空気を切り、空気の壁を叩く音が聞こえる。

 

 苛立ち混じりに舌打ちし、エドガーは即座に身を翻した。鞭の動きを完全に捉えることは出来ない。だがレティの腕の動きから、避けるタイミングを計ることは出来る。


 エドガーの回避は、相手の呼吸を読んだ完璧な物だった。普通であれば当たることなく追撃に移れただろう。


 しかし、ネコタは見た。


【勇者】の【天職】によって上昇された身体能力。その視力は、薄っすらとだが鞭の動きを捉えた。

 エドガーが蹲っていた場所に当たるはずだった鞭は、地面に当たる直前で――直角に曲がった(・・・・・・・)


 ギュイン! ――バチィイイイイイイイイイン!


「ほぎゃあああああああああああああああああああああ!?」

「エドガーさんッ!?」


 またしても、エドガーは鞭を受け悲鳴を上げた。


 エドガーの体に赤々とした蚯蚓腫れが出来る。見るからに痛々しい跡だが、ネコタはそれ以上に今の鞭の動きに囚われていた。


「なんだ今の。明らかにおかしい。まるでエドガーさんを追いかけて曲がったような……」

「あら。坊や、良い目をしているわね。それ、正解よ」


 レティは興味深そうにネコタに流し目を送る。

 ネコタは頬を赤くするが、パシン、とレティが鞭を引っ張った音を聞いて背筋を伸ばした。


「そう、坊やの言う通り。鞭の威力は私の腕によるものだけど、エドガーに当たったのはこの鞭自体の力。こういう特別な力を持った武器の事を何て言うか、知ってる?」

「……ッ!【神造兵器(ディバインウェポン)】……!」


 知らないはずがない。つい先ほどまでそれに苦しめられていたのだから。

 ネコタを褒めるように、レティは口元に笑みを浮かべる。


「そっ、またまた正解。坊や、なかなか物知りね」

「つい先ほど、貴方のお仲間に苦しめられたので。まさか、その鞭にも【ツッコミ】が──」


「あんなふざけた物と一緒にしないでちょうだい。不愉快だわ」

「あっ、はい。すみません」


 素直に謝ったネコタに、レティはため息を吐いて言う。


「まぁ、いいでしょう。勘違いされたままだと迷惑だし、特別に教えてあげる。

 この鞭に祝福を与えた神は、【森と獣の神ブディーチャック】。与えられた属性は【必中】。

 狩人が信奉することもあるこの神様から与えられるには、ピッタリの属性でしょ?」


「おぉおおおおおのおおおれえええええええ……! ブディーチャックめがぁあああああ……!」

「エドガーさんッ!?」


 ネコタはエドガーを見て身を強張らせた。

 エドガーは今までに見たこのないほどドス黒いオーラを放っていた。見ただけで呪われそうな、醜悪な気配だった。


「つくづく祟りよるわぁ……あの外道神がぁああああ……! よりにもよって俺の天敵のような物をぉおおおおおお……! 許さん、許さんぞぉおおおお……! この恨み、晴らさでおくべきかぁああああ……!」


「ちょ、エドガーさん、なんて顔を。いったいなんで……」

「ソイツ、この鞭の事を知った時からそういう反応なのよねぇ。よっぽど神様に恨みでもあるのかしら。そこの所、実際どうなの?」


「ああ、恨みならたっぷりとあるぜぇ……! その鞭を見るたびに、メチャクチャにしてやりたいと思うほどになぁ……!」


 鬼のような形相で、エドガーはレティの鞭を睨みつけた。

 全てを投げ出しても壊したい。そんな覚悟が伝わってくる目だった。

 しかし、レティはそれを小さく肩を竦めるだけで済ませた。


「あら怖い。一体何があったらそこまで恨むようなことになるのかしら?」

「残念だがそれは教えられねぇ。できればたっぷりと俺の怒りを伝えたいくらいだがなぁ!」


「そう、それは残念ね。でもだからと言って、はいそうですかと壊させる訳にはいかないのよね」


 パシンッ! と鞭を地面に叩きつけ、レティは勝気な笑みを浮かべた。


「唯一の勝ち筋を見出し、即座に先手を取ろうとする判断は流石。でも、生憎と初手は私が貰ったわ。もう分かってるでしょう? ここから先は、私の一方的な戦いになると!」


 ――バシイイイイイイイン!


「ピギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!?」

「エドガーさん!」


 あっけなく鞭の一撃を受けるエドガー。いつもならやられても向かっていくエドガーは、オウオウと痛みに呻き膝をついていた。まるでオットセイのようだと、ネコタは思わず口元を抑える。


 だが、その姿とレティの言葉を思い出し、ようやくネコタは気づく。


 レティと出会った瞬間、迷いなくエドガーが切りかかったのは相手が女だからという訳ではない。ダメージを受ける前に、潰す。それ以外、エドガーに勝ち目がなかったからだ。決して性欲に身を任せた衝動ではなかったのだ。


 ──つまり、この状況を挽回できるのは僕だけ!


 己のやるべきことを察し、ネコタは駆け出した。

 これ以上の追撃を止める為に、レティを直接狙う!


「エドガーさん! 待っててください! 今、僕が――!」

「あらあら、これは意外ね。でもそれは勇気ではなく、蛮勇というものよ」


 フッと小さく笑い、レティは瞬時に手元を動かし鞭の軌道をずらす。エドガーに向かっていた鞭は、その性能も合わさり狂いなくネコタを狙った。


「――ッ! バッカ野郎!」


 エドガーは歯を食いしばり、ネコタに鞭が当たるギリギリでその体を滑り込ませる。


 ――バチィイイイイイイイイイイイン!


「ギエピィイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイ!?」

「エドガーさんッ!」


 エドガーの悲鳴に、ネコタは悲痛な声を漏らす。

 庇われたという罪悪感。そして自分が足を引っ張って居るという事実が、ネコタを責め立てる。


 身を呈して己を救ってくれたエドガーは、あまりの激痛ゆえか、ビクンッ! ビクンッ! と痙攣していた。その哀れな姿が、ますますネコタの心を傷つける。


「エドガーさん、大丈夫ですか!?」

「んだぁああああいいじょおおおおおぶだよぉおおおおおお〜?」


 あれ? と、ネコタは首を傾げた。

 気のせいだとは思うが、なにやら声の調子がおかしいような気がした。いや、苦しんでいるのは確かなのだが、それにしても……。


「あ、あの、本当に大丈夫ですか? 無理をしてるんじゃ?」

「うるしぇえな! いいはら放ってょけよ! 大丈夫らって言ってるらろ!?」


「いや、でも、僕を庇ったせいでそうなったのに、放っておくわけにも……っていうか、やっぱり変ですよね?」


「――プッ! アハハハハハハ! あ〜、おかしい。笑わせないでよ。そのウサギが誰かを庇って傷つく訳ないじゃない」


 レティは腹を抑えるほど笑い、そう言った。

 しかし、ネコタはレティが何を言っているか分からなかった。

 どう見てもエドガーはネコタを庇ったというのに、一体何を言っているのか?


「何を言ってるんですか? エドガーさんは僕を守って……」

「フッ、フフッ! 本気でそう思ってるのね。そいつの姿をよく見て御覧なさい。普通の状態じゃないって気づかない?」


 言われ、ネコタはエドガーに目をやる。

 エドガーは変わらず、横たわりながらビクンッ、ビクンッと痙攣していた。激痛ゆえの姿だと思っていたが、ハッとネコタは目を見開く。


 よくよく考えれば、痛み程度であのエドガーがここまで苦しむだろうか?

 いや、エドガーならやせ我慢をして、諦めずに向かっていきそうだ。となると、こうして苦しんでいるのは痛みではなく……。


「まさか、毒? 毒を受けたんですか!? 一体いつの間に!」

「プフッ! フッ、ウフフフッ! 貴方、本当に面白いわね。毒、ええ。確かに毒と言えるかもね」


 目元の涙を拭い、レティは胸を押し上げるように腕を組む。


「笑わせてもらったお礼に教えてあげるわ。私の【天職】は【調教師(テイマー)】。

 魔物に特効を持ち、魔物を操ることが出来る特殊職よ。

 とは言っても、あの筋肉ダルマとは違ってそう珍しい職という訳でもないわ。探せば簡単に見つかるし、戦闘力自体も他の【天職】と比べれば一段落ちるかしら? 特殊職だしね」


 自らの【天職】を卑下する内容だが、さして気にしてないような口ぶりで、レティは続ける。


「でもね、どんなありふれた【天職】でも全員が弱いとは限らない。

 同じ【天職】でもやっぱり格差っていうのは存在するの。戦闘力の低い【天職】でも、極めればまったく別物であるかのような力を発揮することがある。

 それが【天職】持ちの才能差。そして私はSランクまで上り詰めた【調教師】。

 その能力は、他の【調教師】とは一線を画す!」


 パシンッ、と。レティは見せつけるように鞭を引っ張った。


「私が振るった鞭は、生物の本能を呼び覚ます。則ち、強い者に従うという弱肉強食の原初の本能! そして、絶対者への服従の快楽! つまり、私の鞭は受ければ受けるほど、その快感に身を浸らせることになる!」


 レティは再び鞭を振るった。


 話に集中していたネコタは反応することすら出来なかった。そして、エドガーもまた避けることすら出来なかった。


 ――バチィイイイイイイイイイイイイン!


「――ッ! エドガーさんッ!」


 音を聞くだけで想像できる激痛に、ネコタは顔を顰める。

 エドガーが死んでしまうのではないかと、最悪の想像に至った。

 それは当然の思考である。むしろ、未だ生きていることが奇跡かもしれない。


 ……だが。


「ん、んあ――」


 ……だが!


「――んんあああああああああああああああああああああああん!」


 エドガーの反応は、ネコタの想像の斜め上を行った。

 上気した頬に、恍惚とした目。そして、口はだらしなく開き、涎が垂れている。

 俗に言う、アヘ顔というやつだった。


 ――ネコタはドン引きした。


「いや……ちょっ……え……? 嘘でしょ……まさか、そんな趣味が?」

「ンデュフフフフフフフ……! そ、そんな訳な……ないでごじゃるよ……? 馬鹿なことをいうでないわぁ……み、見れば分かるだろぉ……?」

「……そうですね。疑いようがないですね」


 率直に言って、かなり気持ち悪かった。


 心配していたのに、まさかこんな時に趣味に走っていたとは。人の性癖を責めるつもりはないが、時と場所を選ぶべきだし、平時でもとても受け入れられるような内容ではない。


 過去最高に、ネコタはエドガーを軽蔑した。こんな奴をほんの一欠片でも尊敬していた部分があった自分が、とても恥ずかしかった。


「最低だよ。アンタ、ここで死んだ方がいいと思う」

「ち、ちがっ……ほんてょにちがうにょぉ……! あやちゅられてりゅのぉ……!」


「フッ、フフフッ、アハハハハハハ! 本ッ当に良い様ね、エドガー。坊や、そいつの言う通り、そいつはそういう趣味がある訳じゃないわよ。ただ本能に逆らえなくなっているだけ」


 え? と、まるで庇うような発言をするレティに、目を丸くするネコタ。

 レティはからかうような笑みを浮かべた。


「言ったでしょう? 私の鞭は本能を刺激し、快楽を呼び覚ます。打たれれば打たれるほど、服従の快楽は増大する。痛いと身体は悲鳴を上げているのに、私の下僕となった者は、自ら望んで鞭を受けにくる。――それこそ、痛みで死ぬまでね」


 ゾッとネコタの背に寒気が走った。

 そこまで聞いて、ようやくエドガーの状態の恐ろしさに気づく。


 ただ鞭を受け、痛みを感じさせるだけで、相手を支配下に置く力。一度鞭を当てれば、そのまま死ぬまで打たれ続けることになる。しかも使うのは【必中】の属性を持つ鞭。なんと反則的な組み合わせだろう。


 相手を快楽に浸らせたまま、命を奪う。そして打たれた者は、幸せを感じたまま死んでいく。これほど恐ろしい話もないと、ネコタはその性質の悪さに身震いした。


 パシンッ! と脅すように鞭を鳴らし、レティは言う。


「【調教師】の力は魔物と獣のみに効果を与える。けど、私に限っては話が別。

 魔物だろうが、獣だろうが、人だろうが。

 生物である以上、私にとっては例外なく下僕と同じ。誰もが皆平等に私に傅き、首を垂れる。そして、その命を差し出す」


 ――だからこその通り名。

 ――その名の通り”嬢王(クイーン)”。


 種族の一切合切が関係なく、あらゆる生物をその力で虜に出来る、絶対的な権力者になることが可能な能力。


 今まで戦った相手とは別種の力を持つレティに、ネコタは逃げるように一歩引く。

 そんなネコタを見て、レティは唇を舐めた。まるで獲物を前に舌なめずりをする女豹のようだった。


「さて、次は貴方の番よ。そこのウサギは獣人だからね。純粋な人間種と違って本能的だから、たった数発で私の虜になったけど、貴方はどれくらい保つかしら?」


「――ッ! い、嫌だ! こんな……こんなウサギのようになりたくないっ!」

「うっ……へっ、へへへっ! お前もこっちにこいよぉ……! 慣れちまえば楽しいもんだぜぇ……!」

 

「絶対嫌だ! 僕はお前とは違う! ちゃんとした人間だ! 打たれて喜ぶ趣味なんてない!」

「デュフフフフ……! ひ、酷いな……俺だってそんな趣味ねぇのに……!」


「ふふっ、ねぇ、そう怖がらなくて大丈夫よ。すぐにそのウサギと同じ快楽を味あわせてあげるわ!」


 ビュンと、鞭が風を切る。

 それを止めることも出来ないまま、ネコタは自らの未来を想像した。


 あのウサギと同じように、アヘ顔を晒して喜ぶ自分の姿がまざまざと目に浮かぶ。

 いっそ死んだ方がマシ。そう思えるような光景だった。どこぞの恥知らずのウサギと違って、厚顔無恥に生き行ける程、自分はそんなに強くない。逃れられない未来にネコタは絶望した。


 もはや避けられぬ。迫る鞭を前に、ネコタはぎゅっと目を瞑った。


 ――バシィイイイイイイイイイイイイン!


「んぎぃいいいいいいいもちぃいいいいいいいい!?」


 しかし、その鞭はネコタに当たることはなかった。

 再びエドガーが身を挺してネコタを守ったのだ。より酷くなるアヘ顔に、ネコタは感謝よりも嫌悪感が先に浮かぶ。

 デロッデロになっているエドガーを、レティは不満そうな目で見降ろした。


「あら、まだ動けたの? その根性だけは認めてあげるけど、次はその坊やの番なの。少し大人しくしていてくれる?」

「エドガーさん、貴方、もうそこまで」


 狙われていないというのに、まだ自分から受けるとは。

 二重の意味で、もう救いようがない。エドガーの変わり果てた姿に、ネコタは憐憫と軽蔑の混じった複雑な瞳を向けた。

 アヘアへと口元をだらしなく開け、横たわりながらエドガーは抗議の声を上げる。


「ば、ばかっ……んもうっ、そうじゃなくて……ちがくてっ……!」

「もういいです。何も言わないでください。これ以上、貴方を軽蔑させないでください」


「ちっ、ちが……か、かべっ……たてっ……はやくぅぅぅん……!」

「気持ち悪いんでやめて……かべ……たて? ……あっ!」


「もう限界みたいね。それじゃあ坊や、今度こそ覚悟は良いかしら!」


 勝利を確信し、三度、レティはネコタに鞭を振るった。

 しかし先ほどまでとは違い、ネコタの表情に諦めは見えない。


「――【聖なる盾よ】!」


 ――パアアアアン!


 結界がネコタとエドガーを包み込む。

 己の鞭をあっさりと弾いた結界に、レティは目を丸くした。


「あら、驚いたわね。貴方、そんなことまで出来たの?」

「あ、危なかった。なんとか間に合った」


 無事に攻撃を跳ね返し、ほっとネコタは息を吐く。

 そんなネコタに、レティは感心した声を上げた。


「ふふっ。意外に粘るわね。でも、いつまで耐えられるかしら?」


 ――ヒュパヒュパヒュパヒュパヒュパン!

 

 手加減抜きに、レティは結界に向かって攻撃を重ねた。

 磨き上げられたSランク冒険者の身体能力と熟練の鞭さばきが、絶え間ない連撃となって結界を襲う。息つく間もなく鞭が唸り、空気を切り裂く音が途切れることもない。


 しかしネコタの結界は微動だにせず、その全てを受け止め続けていた。


「凄いじゃない! この私の鞭をここまで受け続けるなんて! でも、そこからどうするのかしら? 鞭を防げる代わりに、そこから動けないでしょう?」

「……ッ! お見通しですか!」


 レティの言う通りだ。

 ネコタの思っていた以上に、結界は硬いようだった。もう数え切れぬほど鞭を受けているのに、壊れる様子がない。この中に居るなら無傷で済むだろう。


 しかし逆に言えば、こうして結界の中に閉じこもることしか取れる手段がない。

 これだけの連撃を重ねても、レティに疲労はない。それどころか余裕そうに、こちらの出方を楽しみにしている節がある。


 結界も今は大丈夫だが、いつまで保つか分からない。ハッキリ言ってジリ貧だ。何かしなければ、いつかやられるのを待つだけ。その時間を少し長く伸ばしただけになる。


「なんとかしないと。でも、一体どうすれば……」

「うっ、ううぅっ」


 ネコタが打開策を考えていると、ヨロヨロとしながらエドガーが立ち上がった。

 少し前よりも回復したように見えるエドガーに、ネコタは気遣いの言葉をかえる。


「大丈夫ですか、エドガーさん。良かった、少しは回復したようで――」

「【ラビットクラッシュ】!」


 ――ドフッ!


 エドガーの突きあげるような蹴りが、ネコタの腹部に突き刺さった。

 内臓が飛び出るかのような苦しみに、意識が飛びかける。

 ネコタのダメージに呼応したのか、結界が一瞬ブレた。


「あら、チャンスかしら? もしかして、そろそろ限界?」

「ぬぐっ、おおぉおおおお……!」


 苦しみに耐え、ネコタは気を入れなおす。

 消えかかったぎりぎりのところで、結界はなんとか持ち直した。


 ネコタは睨み殺すような目でエドガーを見る。すると、彼はフラッと体を揺らし膝を着いていた。


「チッ! まだ体が本調子じゃねぇか。全快なら風穴を開けてやれるものを」

「ふざけんなよお前! 今の状況が分かってんですか! 結界が解ける所だったろうが!」


「ふざけてんのはお前だこのウルトラバカ! テメェがさっさと結界を張らないせいで俺が要らん傷を負っただろうが! ぶち殺すぞ!?」

「しょ、しょうがないだろ! まだ慣れてないし、咄嗟に思いつかなかったんだから!」


「しょうがないで済むかぁああああああああああ! テメェに鞭を打たれてアヘ顔を晒すことになった俺の気持ちが分かんのかぁああああああ!?」


 もっともな言い分だった。

 おっ、おっ、おっ、と泣き出すエドガーに、ネコタはそれ以上言えなかった。


「うぅっ、ぐすんっ! もう二度とあんな目に合いたくなかったのに、また同じ羽目になるなんて、あんまりだっ……!」

「すっ、すみません」


「謝ったってもう遅い! 体の傷は治っても、心の傷は治らないんだぞ! お前が無能なせいでこうなったんだからな!? ちゃんとこの恩は返せよ!」

「……皆に言っちゃおうかな。エドガーさんが鞭を打たれて喜んでた、って」


「もうっ、ネコタ君ったらっ! 次は気を付けるんだぞっ!」


 コツンッ、とエドガーはネコタの膝元を叩く。

 あっさりと態度を変えたエドガーに、ネコタは初めて勝利を確信した。今が非常時だというのが残念だ。こんな時でなければ、この弱みの使い道を考えられたというのに。


「誰にも言うなよ! 絶対だぞ!? 特にアメリアには絶対言うなよ!? その時はマジで殺すからな!」

「はいはい、分かりましたよ。それで、ここからどうします? 何かいい案はありますか?」


 むぅ、と。難しい顔でエドガーはレティを睨む。

 レティは変わらず鞭を振るい続け、こちらの出方を伺っていた。ヒュパン、ヒュパンと結界を叩く鞭の音が連続的になり続ける。

 エドガーに悔し気に舌を鳴らした。


「駄目だな。今結界を解けば、アイツの餌食だ。おい、結界の方はどうだ? まだ保つか?」

「そうですね。今のところ体力の消耗は感じません。実際のところはどうか分かりませんが、まだしばらくは大丈夫だとは思います」


「低燃費で高性能、流石だな。女神様はよっぽどお前を信用していないらしい。過剰なまでの力を分けてくれたようだ」

「鞭の件、絶対に皆に伝えますから。覚悟しておいてくださいね」


「そうか。なら俺はお前がハリセンでシバかれてマジ泣きしたことをバラすわ」

「ズルいぞ! それを持ち出すのは卑怯だろうが!」


 優位性を見つけたと思ったら、すぐに帳消しにされてしまった。

 僅かな時間で反撃のネタを見つけるウサギは流石と言えよう。


「へへへっ、死なば諸共よ。自分だけ無事に済むとは思わねぇことだなぁ!」

「わっ、分かりましたっ。お互い秘密にしましょう。いいですね?」

「いいだろう。俺も黒歴史が知られるのは御免だからな。素直にのってやる」


 二人は握手をし、同意を示す。

 ここに、秘密協定が発足した。

 これでひと先ずは安心だと、ネコタは人知れず安心する。だが、それが思考の硬直だということに、彼はまだ気づいていない。


 新しい駆け引きは既に始まっているのだ。ネコタは油断し、エドガーは既にあらゆる可能性の模索している。この差がどのような形で現れるか、見物である。


「で、そろそろ冗談は抜きにして、どうしますか?」

「どうするもこうするも、方法は一つしかねぇ。アイツが疲労して鞭が止まった瞬間に、俺が最高速度で斬りかかる。一瞬の隙さえあれば、一撃で仕留めて見せるさ。だがそのためには、お前がそれまで結界を張り続けなけりゃあならねぇ」


「僕次第、ということですか」

「まぁ、そういうことだ。我慢比べ、根性勝負になる訳だが、もやしの現代っ子には難しいかな?」


 エドガーの挑発にネコタは剣を構えなおし、不敵な笑みで言った。


「バカにしないでください。これでも我慢強い方なんですよ、僕は」


 実に説得力のある言葉であった。

 そうでもなければ、ここまで旅を続けることも出来なかったであろう。主にウサギのせいで。

 凄まじいストレス耐性である。あるいはこの少年は、ストレス社会、現代日本の申し子なのかもしれない。


 フッ、と小さく笑い、エドガーは剣を抜いた。膝を曲げ、力を貯める。一度開放すれば、一瞬でレティの元へ辿りつくだろう。


 それを察し、レティはスッと目を細めた。余裕のあった表情に緊張が走る。


「あら、適わないと分かってそんな坊やの力を借りるの? 随分と甘くなったのね。昔の貴方なら、頼りない仲間なら居ない方がマシって考えたでしょうに」


「いや、変わってねぇよ。だがな、”弘法筆を選ばず”、”バカとハサミも使いよう”、”ネコタに聖剣”、だ。要は使い方次第ってことさ。聖剣を持った素人でも、それを上手く使える人間が居れば、立派な戦力になる。ただそれだけのことよ」


「あなた、相変わらず変わった言葉を使うわね。最後のだけはよく分かったわ」


「エドガーさん、協力するのは今だけです。後で話し合いましょう。必要なら、剣を持ってでも」

「ふっ、いいだろう。その時は俺も全力を持って応えよう。だがまずはコイツを倒してからだ」


「あらあら、本当に良い仲間を手に入れたのね。嫉妬しちゃうわ」


 からかうような口調だが、レティの額には薄っすらと汗が流れていた。

 絶え間なく鞭を振るっているというのに、あの結界は皹一つ入らない。己の鞭の破壊力は決して低くないが、根本的に力が足らないのだろう。あの坊やもまだまだ余裕そうだ。


 そして、ふざけてばかりの口煩いウサギが、珍しく神経を集中させ己を狙っている。

 剣を抜き体を低く構えこちらを狙っている様は、まるで肉食獣が機を伺っているよう。その精神に乱れはなく、静寂な湖畔を想像させた。


 ――今、鞭を止めれば、間違いなく斬られる。


 まだまだ体力に余裕があるとはいえ、レティは最悪の状況を想定せざるを得なかった。


「……本当に厄介ね。一対一なら問題ないというのに」


「すみません。僕はまだ未熟なので、一人じゃ出来ないことが多いんです」

「卑怯だなんて言うなよ。冒険者たるもの、どんな手を使おうと目的を達成した方が勝利だ」


 ブレない二人の返答から、レティは悟った。

 これは、心の折れた方が負ける戦いになった、と。


「いいでしょう。根性勝負なんて趣味じゃないけれど、とことんやってあげる。あまり私を舐めないことね!」


 ――ヒュパヒュパヒュパヒュパヒュパヒュパヒュパン!


 レティの気合に呼応し、鞭の勢いは更に激しくなった。

 それでも二人は揺るがない。やるべきことを見定め腹を括った二人は、この程度の揺さぶりに動揺しない。


 ネコタは、ただ、耐える。

 エドガーは、ただ、待つ。


 己の職務に、二人は全神経を注いでいた。

 自分達が限界を迎えるか。それとも、相手が先に力尽きるか。

 二つに一つの、我慢比べ。


 そうと決めた以上、もはや二人に、生半可な仕掛けは通用しない!


「――やっと追いついたぞぉおおおお! エドガー! 軟弱坊主!」

「「キャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!?!?!?」」


 明鏡止水の心は、後ろから聞こえた声に容易く崩れ去った。

 二人が後ろを見れば、ハリセンを持った大男が、ニヤァ、と迫力のある笑みをして走ってきていた。


 ――ブブッ、ブブッ、ブン、ブブッ……!


 結界の揺れ具合が、ネコタの動揺を大いに表していた。


「あわわわわっ!? わ、忘れてたぁあああああ! もう追いついてきちゃったぁあああああ! どうしよう!? どうしましょうエドガーさん!?」

「おおおおっ、落ち着けバカヤロウ! 結界がブレブレだろうが! 自滅するつもりか!?」


「だってぇぇええええ! 無理! 無理ですよ! 落ち着けって言われて落ち着ける訳が!」

「それでも落ち着け! お前の結界が消えたらその時点で終わりなんだぞ!」


「あらら、あっさり形勢逆転しちゃったわね。オリバー! 私がこのまま抑えておくから、悪いけどその結界を壊しちゃってくれる?」

「任されたぁあああああ! さっきまでの恨み、ここで晴らしてやるぜえええええ!」


「結界も駄目じゃないですかぁああああああ!? どうすればいいんですかぁああああ!」

「年増がぁあああああ! 憎たらしいほど適切な行動を取りやがってええええええ!」


 結界を消せば、レティの鞭で叩かれる。

 消さなくても、すぐにオリバーが来て壊される。


 絶体絶命。明らかな詰みの状況であった。


「どうしよう!? エドガーさん、何か方法は……エドガーさん?」


 ネコタは間の抜けた声を上げた。

 エドガーはいつの間にか、結界の端で低く構えていた。ネコタも見覚えがある。それはクラウチングスタートと呼ばれる姿勢だった。


「エドガーさん!? なんですかそれ! 一体どういうつもりですか!?」

「一瞬……そう、一瞬の勝負だ! 結界が破られたその瞬間、奴よりも速く逃げ出せば!

 俺の足か、奴の鞭か──いざ尋常に、勝負ッ!」


「ちょっと待てぇえええええええ! 僕を置いていく気だな!? お前だけ逃げるなんて絶対に許さないぞ! それなら今すぐこの結界を解くからな!?」

「ちょ待っ!? 早まるな! このままでは共倒れだ!? それならせめて俺だけでもッ!」


「オリバー、私がそのウサギを狙うから、それに合わせて結界を破ってちょうだい」

「よし来た! 待ってろ、すぐそっちに行く!」


「いやぁああああああああ!? 来ないでぇええええええ!?」


 エドガーは涙を流しながら叫んだ。

 結界の端から真ん中に戻り、ピトリとネコタの太ももに張り付く。


「おい、今度は何のつもりだ?」

「クッション」


「クッション、じゃねぇえええええ! 離れろ! 死ぬなら一人で死ねぇ!」

「やだやだやだっ! もう年増に責められたくない! ドM趣味は持ってないんだ! 逆レイプはもう嫌なんだっ! やるならピチピチのギャルがいい!」


「本当にゲスだなお前! 僕だって嫌だよ! とっとと離れろぉおおおお!」


 実に混沌(カオス)であった。


 いやいやと首を振り、エドガーはヒシリとネコタに抱き着く。そしてネコタはそれを引き剥がそうとする。どちらも自分だけでも助かろうという気がありありと見えていた。往生際が悪いにも程がある。


 そうしている間に、オリバーは結界の前までたどり着いていた。

 荒れた息を整え、満面の笑みを浮かべる。


「ふぅー、ようやくだぜ。随分と手こずらせてくれたな。じゃ、覚悟はいいか?」

「らめぇええええええええ!? ど、どうしよう! どうしよう、どうしようネコタ君っ!」

「どうしようって、そんなこと言われてもっ!」


 争っていたのも忘れて、ヒシリッとお互い抱き合う二人。

 怯える二人に獰猛な笑みを向け、オリバーはハリセンを振りかぶった。


「結界に引きこもるだけでなく、男同士で抱き合うとは、貴様ら――ホモゲハぁ!?」


 もはや為すすべもなく、一方的に甚振られるのみ。

 そのはず、だった。


 エドガー達の頭上に、フッと影が差し込む。その直後、オリバーは頭部に衝撃を受け、そのまま何回転もするほど弾き飛ばされた。


 何者かがオリバーに跳びかかり、蹴りを放ったのだ。


 襲撃者は蹴りの反動を使い、クルリと回転しその場に着地する。

 そして、気軽な調子で二人に話しかけた。


「おいおい、なにあたし抜きで楽しそうなことしてんだよ」


 突如現れた敵に、レティは鞭を止め。

 エドガーとネコタは希望を前にし、パァッと表情を輝かせた。


「お前らだけ楽しんでねぇで、あたしも混ぜろよ」

「「ジーナちゃ(さ)ぁあああああああああん!!!!」」




 窮地に陥っていた二人の前に、これ以上なく頼もしい仲間が現れた。





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