淫魔を助けてみた
伊藤将人が目覚めると、そこはどこか異国の戦場のようだった。
ヨーロッパ風の街並みは半壊し、あちこちに人が倒れている。
その多くが皮の甲冑姿の兵士達だ。
この、真夏のような暑さだ、鉄の鎧など着られないのだろう。
……そもそも、ここが地球かどうかすらあやしかった。
何せ見上げると、空は燃えるように赤く、太陽は漆黒だ。
さらにこれが今の所、一番重要なのだが……。
彼の目の前で、女の子が死にかけていた。
「はぁ……っ……はぁ……っ……」
息も絶え絶えと言った様子の細く荒い呼吸、わずかに上下する胸、そして石畳に広がる大量の血。
背中に蝙蝠のような翼を生やした水着姿の少女だ。
いや、よく見ると人ではない。
髪は紫色で、左右のこめかみに山羊のような角が生えている。
顔は幼いが、おそらく自分と同じ十六、七ぐらいか。苦悶の表情に潤んだ瞳が、その手の趣味のある人物には、たまらなく加虐趣味をそそらせるが、幸いなことに将人は動転しており、性欲どころではなかった。
ただ、美少女である事は間違いない。
服はほとんど来ていないも同然というか、見事なプロポーションを際どい黒のビキニっぽいボンデージスーツで覆い、腰の後ろからは先端が槍のように尖った細い尻尾が見えていた。
将人もVRMMOの1つや2つ、心得がある。
頭に、淫魔という種族名が浮かび上がった。
男を誑かし、精気を吸い取る種族だ。
なるほど、この子のこの容姿なら、それも容易いだろう。
だから、本来なら警戒するべきだ。
……が、左の脇腹を槍に貫かれているのだ。
近付いて大丈夫なのかとか、自分は何故こんな場所にいるのかとか、そういう疑問を全部吹っ飛ばして、伊藤将人は少女に駆け寄った。
「お、おい、大丈夫か……?」
少女は答えない。
「けほ……っ」
代わりに、咳と共に血を吐いた。
これはまずい、と素人でも分かる。
この場合、揺らすのはまずいのだろう。
しかし止血はどうすればいいのか。
「そ、そうだ、確か医学用のアプリを入れてたはず」
体内に常駐する極微小機械群端末『インナーフォン』を起動させ、視界に仮想ディスプレイを表示させる。
アプリを立ち上げるが……。
「って、家庭の医学で治せるレベルじゃねえだろこれ……!! 槍だぞ、槍!?」
さすがにこの状況をどうにか出来る内容はなかった。
止血しようにも、適当な布がないし、そもそもこの場合、槍は抜いちゃっていいのだろうか。むしろ出血が酷くなるんじゃないか?
どうする……どうすればいい。
焦りだけが募る将人に、少女の朦朧としていた目の焦点が合う。
「ぁ……」
将人は、少女の顔を覗き込んだ。
「ん? ど、どうした、何か言いたい事があるのか?」
「腕……」
将人は自分の腕を見た。
左の肘から手首に掛けて大きな擦り傷が出来、乾いて赤黒くなった血がこびりついていた。
「あ、ああ、これか? どうやってついたのかは分からないけど、いつの間にか怪我しちゃってたんだろうな……って、他人の心配している場合か! 君の方が重傷だろ、どう考えても!?」
「それ……」
少女の手が、将人の腕に添えられる。
「それって、この腕が……どうしたんだ?」
「お願い……」
「い、いいけど、どうするつもりだよ」
縋るような声音に、将人は左の手を少女に近づけた。
「ん……」
少女の舌が、将人の手を這った。
「って、うわあ!?」
ヌルリとした粘体の感触に、将人は悲鳴を上げる。
たまらず手を引き離そうとしたが、いつの間にか力を取り戻した少女の手が将人の腕を掴んで逃がしてくれない。
「はぁ……はぁ……はー……はー……」
発情したような鼻息を上げながら、少女の舌は将人の腕を這い回る。
いや、舐めているのは腕ではない、血だ。
二股に分かれた舌が傷跡をくすぐり、わずかな鈍痛と共に快感が骨を、神経を駆け抜けていく。
「ん、く……はあぁ……おいしい……」
ほとんど真っ白だった少女の顔色も、いつの間にか朱が差している。
潤んだ目は腕から離れず、一心不乱に血のついた肌を舐めしゃぶる。
「う、お……」
血管の脈動が将人の意識にも伝わってきていた。そして、その脈が1つ打つたびに指が震え、5本の指から、左腕から、甘美な刺激と共に力が抜けていく。
そして抜けた力は少女の舌を伝って、彼女の体内へと流れ込んでいっているのも分かる。自分の力――おそらく精力の類が、少女の染み込んでいっているのだ。
(……や、やっぱりこの子、淫魔なのか)
ヤバイと思う反面、こうなったら根こそぎ奪っていけとも思ってしまう。下手に残るよりも、むしろ全部出し尽くした方がいっそマシだ。
「ふぁ……」
やがて将人の腕が完全に力を失い、皺だらけに干涸らびた辺りで、少女の口元が光った。
牙だ。
しかし、それが突き立つ前に、精気を得ることに夢中になっていた少女は我に返り、恥ずかしそうに腕を遠ざけた。
そして、横たわったまま、感謝を述べる。
「あ、あ、ありがとうございました……! た……助かりました……!」
「あー……」
これまでに経験した事のない快楽に半ば朦朧としていた将人だったが、少女の礼の言葉にかろうじて返事を返した。
「や、やりすぎてしまいました……えっと……」
「お、おお……?」
少女が手をかざすと、干涸らびていた腕が見る見るうちに元に戻り、活力を取り戻した。傷はふさがり、薄い跡が出来上がっていた。
「後は、これさえ抜けば……くっ!」
彼女は、自分の脇腹に刺さった槍に手をやった。
が、力が入らないのか、槍が抜ける気配はない。
「お、おい、無茶するな」
痛みに顔を歪める少女を、将人は制した。
「あの……」
「うん?」
「すみません、抜いてもらえますか?」
「俺が?」
「ご迷惑でなければ……お願い、出来ますか?」
「……分かった。でも多分、ものすごく痛いぞ」
「だと思いますけど、このままという訳にもいきませんから」
「だな」
将人は立ち上がり、槍に手をやった。
握った感じ、相当深く刺さっているようだ。
これはかなり力を入れなければ、抜けそうにない。
「行くぞ」
「は、い……っ! く……ぅう……っ!」
グッと手に力を込めて、槍を引いていく。
肉を裂く感触と共に、血にまみれた槍の柄が少しずつ、少女の腹から姿を現わしてきた。
「あ、ん……っ、はぁ……あ、あ……」
苦しませないように慎重に引き抜いている将人だったが、槍の返しが少女の肉を引き裂くたびに、彼女の身体が小さく反応し、熱っぽい吐息を漏らしていた。
脂汗を滴らせ、明らかに辛そうなのは分かるが、何だか違う事をしているような気分にさせられてしまう。
つまり。
すごい、落ち着かない。
「ちょ、ちょっとタンマ」
将人は一旦、手を止めた。
「な、何でしょうか?」
「その、声少し抑えてくれると助かるというか……こんな状況なのに、妙な気分になりそうで……」
「そ、それなら、いっそ残りを一気に引き抜いてもらえると……遠慮されると、どうしても声は出てしまいますから」
「一気にか。分かった」
将人は両手で槍を握り直す。
その感触が、貫いている槍にも伝わったのだろう、少女は唇を噛んで、刺激に耐えていた。
「ん……っ!」
(だからぁ……)
力が抜けそうになるのを我慢し、将人は足を踏ん張らせる。
「いくぜ」
「は、はい……どうぞ」
腰を溜め、綱引きの要領で槍を引っ張った。
ズブズブズブ……! と少女の筋肉を引き裂きながら、槍が引きずり出される。
「い、ぁ、あああぁぁぁぁ……っ!!」
少女の高らかな悲鳴と共に、槍は全て引き抜かれた。
ポッカリと空いた身体の穴を、少女は治癒術で即座に埋めてしまった。
ただ、傷自体は気になるのか、そこを押さえたまま、将人を見上げていた。
「あ、ありがとう……ございました。本当に、助かりました」
「い、いや、そんな礼を言われるような事じゃ……いや、あるのか」
何しろ、身体に刺さった槍を引き抜いたのだ。
そりゃ礼の1つも言われて当然だ。
「はい。命の恩人ですから。まさか、敵である私を助けてくれるなんて……貴方はとてもよい方ですね」
「いやいやいや……敵?」
サラッと、何だか聞き逃せない発言が出た。
「は、はい。現在人間の住む国と私達夜魔の国とは戦争中で……ご存じないのですか?」
「あ、ああ、まあ……そもそも、ここがどこなのかすら分からない状態でさ」
不思議そうに、パチクリ、と瞬きする少女に、将人はどう説明すればいいのか迷った。
場所が不明。
何故、こんな場所に自分がいるのかも不明。
そもそも、この子と普通に話しているが、何せ少女の言葉は日本語ではない。
何故言葉が分かるのかも不明だ。
だがしかし、それら全てを目の前の子に聞く余裕はなさそうだ。
ここは戦地のど真ん中。
のんびりと相談をしている場合ではない。
「では、このまま向こうに進んで下さい。人間の軍は、あちらの方角です」
言って、少女は道の向う側を指差した。
「君は?」
「自国の軍の方に戻ります。私の同族――夜魔に捕まっちゃ駄目ですよ? 見かけたら隠れて下さい。先に発見されたら全力で逃げて下さい。捕まった人間は工場に押し込められ、干物になるまで精気を搾り取られてしまいますから」
「そりゃゾッとしないな。でも、君はそうしなかったけど?」
「それは……た、助けてくれた人を死なせる訳にはいきませんし……ギリギリで理性を取り戻せて、よかったです。……ふ、普通、無理だって話なんですけど……そうなってもよかったんですけど……」
耳まで赤くし指をモジモジさせながら、少女が小声で呟く。
「ああ、そりゃまったく俺にとっても幸運だったんだな。……ところで、また会えるかな?」
何となく言ってから、将人は後悔した。
何という軽い言葉だ。
普段ならまず、絶対に出て来ない。
それがスルッと出て来たのは、あまりに無防備すぎるこの淫魔の少女の雰囲気のせいか。
そして将人の問いに対する、少女の答えはというと。
「え? そ、それは、ちょっと……戻ってみないと……」
大いに恥じらい、言葉を濁していた。
「……そりゃ、そうか」
振られたのかなあと、将人はガックリ落ち込む。
好みとしてはドストライクなのだ。
あわよくばお近づきに……なんて思ったりしたが、小中と女っ気のない生活を送ってきた人間には少々ハードルが高すぎたらしい。
と、反省している将人だったが、話はまだ終わっていなかった。
「私、ナイア・クークです」
「あ、俺は伊藤将人」
そういえば、お互いに名前もまだ名乗っていなかったことを思い出す。
「将人様ですね。で、では、機会があれば、また……私も、お会いしたいです」
照れくさそうに微笑むと、少女――ナイア・クークは羽を大きく広げ、反対側に飛び去っていった。
最後の台詞は社交辞令かもしれないが、希望は持てた。
グッと拳を握る将人であった。
「さて」
気を取り直して、現実を見据える。
「ホントどこだよ、ここ……」
ナイアが教えてくれた方角に歩きながら、将人は途方に暮れていた。
……これはあれか、都市伝説って奴か。
頭に浮かぶのは、『VRMMOデスゲーム』だ。起源は何十年か前のライトノベルに遡ると言われる、「ゲームに入ったら出られなくなった」やバリエーションとして「ゲームそっくりの世界に召喚された、もしくは転生した」というのもある。
心当たりはある。
この地を訪れる前、最後の記憶は自室でインナーフォンとアームバンド型ゲーム端末を接続し、ベッドに横たわったって地点だ。
「ただ、そうだとしても辻褄が合わないんだよなあ……」
何せ、将人が始めたゲームは、現代日本を舞台としたギャルゲーである。
断じて、こんな戦地で初っ端から淫魔に精を吸い取られるような内容ではなかったはずなのだ。
……事態を整理しよう。
足を進めつつ、将人は数時間前の事を思い出していた……。
なお、別にエロの限界に挑戦するお話ではないので、次は普通です。