第十話 美しい事象の為の地味な事象
地上ではそろそろ桜のつぼみが大きく膨らみ、眺めている人々もそわそわし始めた頃。ほとんど完璧な時期に、恵水と留梨の二人は事象室にいた。
「さて、この灰を撒くわけだけど……。どうすると思う?」
「どうする、と言うと?」
「ただ落とすと固まっちゃうからね。広げてあげないといけないのよ」
「なるほど。それなら……風ですか?」
留梨は最近の鍛錬を思い出して答える。実はあてずっぽうだ。
「おお、よく分かったわね。実はここの事象室には他にない部屋があるのよ」
そう言って恵水は留梨を連れて事象室の中に入った。そしてその隅にある壁に手をかざし、呪文を唱える。
「捲れ。その裏に隠せしものを開け」
すると、文字通り捲れるように壁が、正確には壁のような見た目の薄い何かが消えていき、あとには硝子(天界にはめったにない)製ののぞき窓のついた扉と、その横にちょうど壺が一つ入る大きさの四角いくぼみが現れた。
「これって……」
「そこに壺を入れて、私たちはこの中よ」
「あ、はい」
二人は事象室横の、“はなさかの間”という名前がついている小部屋に入った。
「へぇぇ……」
中は意外に広く、ちょうどのぞき窓から中が見える位置の床に銀色の四角い場所がある以外は事象室をそのまま小さくしたものとほとんど変わりない。
「ほら、この上に乗って。じゃないと落ちるわよ」
「え? はい」
乗ってみると、その床は単に銀色なのではなく、他の部分と違って何やら金属でできているらしい。
「じゃあ、ちゃちゃっとやっちゃいましょう。吹き抜けよ、“展城”」
留梨が乗ったのを確認した恵水がそう言うと、恵水の気とは違う空色の陣が扉の向こうにもこちらにも展開させる。
「これは?」
「この部屋、正確にはこの足元の金属には、気力を変化させて、ここでしか使えない術にする働きがあって、この“展城”を使ってる間は、この部屋の床は全部抜けた状態になるの。で、唯一安全なのがこの上ってこと」
「なるほど。でも、なんだか信じられひぃっ?!」
端に立っていた留梨が一瞬踏み外しそうになり驚いた声を上げる。
「ほらね」
「……はい……」
留梨はしばらく真っ赤だった。
数分後。
「落ち着いた?」
「はい、すみません」
「気にしない気にしない。じゃあ、始めるわよ。こっちは自前でね。吹き踊れ、創象“東風”」
恵水の呪文と同時に窓の向こうで灰が舞い始める。ここで留梨は、この小部屋の必要性を改めて認識した。思っていたより窓の向こうの砂嵐もとい灰嵐がひどかった。
「思っていたよりだいぶ吹くんですね」
「まあね。あまり時間はかけられないし、一気に降らせてしまえばあとは地面についた灰が少しずつ咲かせてくれるから」
そう。「枯れ木に花を咲かせましょう」的な即時効果は実はこの灰にはない。敢えて平たく言えば、強力な肥料となんら変わりはないのだ。ただ、この灰の強力な生命力によって開花が促される程度の代物だ。
それと、どうでもいい話だが、この灰はそれだけが降ってくると不自然なので黄砂に混ざって降ってくるように時期を調整している。黄砂が降らないときは、まあどうにかする。具体的には雨に混ぜる。春に三日の晴れ間無し……だったか。
ちょうど一刻(二時間)ほど経っただろうか。風に混じる灰がほとんど無くなり、今回の仕事の終了を告げていた。
「そろそろね」
「ええ。そうみたいです」
「さて、何か質問は?」
「えっと……」
留梨が逡巡した時間は意外に短かった。事象と最近の経験と今回の仕事を結びつけると、一か所だけ不自然だったからだ。
「そういえば今回は無我の術を使っていませんよね。どうしてですか?」
「そういうこと。じゃあ、今回はどういう仕事だった? 目的じゃなくて、過程を思い出してみて?」
「壺から風で灰を舞い上げて散らす……ああ、正確な調整は必要ないんですね」
「その通り。さすがね」
「ありがとうございます」
術にはさまざまなつながりがあって、その必要性は状況によって異なる。これを知っておかないとあとで覚えるのでは似た術同士の使い分けに苦労することになるので、どうせ教えるなら一度に全部教えておいたほうがいい。これが一つの術を覚えるのに半世紀を費やす主な理由で、単に一つずつ覚えるのではなく、一度に多くの術をそれぞれに等しい時間をかけて覚えることが必要なのだ。
「さて、もういいわね」
「はい」
「じゃあ、風を止めて床を戻してっと。じゃあ出ましょうか」
「はい……」
小走りに近い勢いで恵水が出口に向かう中、留梨は足元が石に変わる辺りで一瞬躊躇った。
「? どうしたの、留梨?早く行くわよ」
「あ、はい!」
「ふふっ、もう床は抜けないわよ?」
駆け出してから恵水のとぼけた態度の真意に気付いた留梨は、
「はうぅ……」
また赤面した。
その頃。
「暇ねぇ……」
「そうですねぇ……」
冬の館の縁側。雪の降る庭を眺めるのでは日向ぼっこにもならなければ、少々寒いので昼寝にも向かない。
「暇だし……渚にでも行こうかしら」
「あそこですか?……お一人で行かれるならちゃんと帰る時間は決めてくださいね。食事の都合もあるので」
やる気の無い声で会話は続く。
「あなたは行かないの?」
「じゃあ食事の隼備お願いできますか?」
「そうねぇ……たまにはいいかも知れないわねぇ」
「……はい?」
ここでようやく我に返ったのは涼華。理渡がまさか炊事を買って出るとは思わなかった。
「分かったわ。今日は私がご飯を作って待っていてあげるから、思う存分やってらっしゃい」
「あ、はい。えっと、じゃあ夕方には帰りますね。行ってまいります!」
しかしそこは切り替えが早い。折角の機会と、涼華はすぐに走って出ていくかと思いきや、すぐさま術で転移していった。
涼華の行先は、現状では理渡しか知らない。手がかりは“渚”だが、服装的に海ではないようだ。まあ、そのうち分かるだろう。
恵「やっと仕事も終わったし、遊ぶわよ! 次回は『渚』だって。じゃあまたね!」




