測量士が隠していた過去
最初の正式な依頼を受けた翌朝、ミレアはユハンとともに北側の水路へ向かった。
老人から預かった契約書を調べるためだった。紙の状態を確認し、依頼の範囲と報酬を定める。仕事は小さくても、自分の名で結ぶ最初の契約になる。ミレアは何度も文面を読み返し、曖昧な箇所がないことを確かめた。
北側水路は、旧水門から分かれた細い運河だった。いまは底が見えるほど水が少なく、岸にはひび割れた泥が張りついている。水路沿いの家々では、住民たちが桶を抱えて順番を待っていた。
「この水路は、昔からこんなに浅かったのですか」
ミレアが尋ねると、老人は首を振った。
「いや。十年ほど前までは、雨の少ない年でも畑を潤していた。だが、あの事故のあとからだ」
ユハンの足が止まった。
老人は気づかずに続けた。
「上流の水門が壊れて、急に水が流れ込んだ。堤が崩れて、倉庫も何軒か流された。測量を間違えた若い男が責任を取ったと聞いているが……」
「その話は、もういい」
ユハンの声は低かった。
老人が驚いて口を閉じる。ミレアは隣の横顔を見た。ユハンは水路の向こうを見つめていた。いつもなら、地形の傾きや水面の高さを即座に読み取る目が、今は遠い場所に向けられている。
「ユハン」
「すまない。先に戻っていてくれ」
「どうしてですか」
「今の依頼を終えたら話すつもりだった」
彼は測量道具の入った鞄を握り直した。
「だが、ここで話さないと、また逃げることになる」
水路脇の古い石段に腰を下ろし、ユハンはしばらく黙っていた。風が枯れ草を揺らし、遠くで荷車の車輪が軋んでいる。
「十年前、俺はこの都市の水路測量所にいた」
ミレアは黙って聞いた。
「見習いを終えたばかりで、初めて大きな仕事を任された。雨期に備えて、上流の水門と堤の高さを測る仕事だった。測量の結果、古い堤に亀裂があると報告した。水門を開ける順番も、協定書に従うよう書いた」
「それなのに、事故が起きた」
「俺の報告書が書き換えられていた」
ユハンは膝の上で手を組んだ。
「測量所の上役は、修復費用を出したくなかった。それに、上流の商会は早く荷を運ぶため、水門を予定より先に開けたがっていた。俺は反対したが、見習いの言葉など誰も聞かなかった」
「事故の日、何があったのですか」
「雨が三日続いた。上流の水位が危険な高さまで上がり、俺は水門を閉めるよう叫んだ。だが、現場に届いた指示書には、下流へ一気に流すと書かれていた。誰の筆跡かは分からなかった。水門が開き、堤が崩れた」
ユハンの声に、初めて震えが混じった。
「死者は出なかった。だが、倉庫や家が流され、畑も埋まった。翌日、俺の測量が間違っていたことにされた。古い地図を読み違えた、危険を予測できなかった、勝手に水門の順番を変えた……。反論するための書類は、事故の混乱の中で消えていた」
「あなたは、責任を認めたのですか」
「認めなければ、もっと多くの人が職を失うと言われた。測量所の仲間も、家族を抱えていた。俺ひとりが辞めれば済むなら、それでいいと思った」
ミレアは胸の奥が重くなるのを感じた。
自分もかつて、商会を守るために沈黙するよう求められた。違うのは、彼女が沈黙しなければ他人の罪を背負わされ、ユハンは沈黙したことで自分の罪にされたことだった。
「その後、どうして独立したのですか」
「測量所を辞めてから、各地の水路を歩いた。誰かの命令で線を引くのではなく、自分の目で地面を見るために。けれど、ここへ戻ってきたのは、事故の原因を忘れられなかったからだ」
ユハンは水路の底へ視線を落とした。
「旧水利協定の欠落部分を見つけたとき、事故の日の指示書と同じ言葉が残っていた。『共同の水門を開く』という規定が削られ、その代わりに、上流の管理者が単独で水を動かせるような文が入れられていた」
「それが、事故の原因だと思っているのですね」
「思っているだけだ。証拠はまだない」
彼はそこで、ミレアを見た。
「だから、あなたに頼んだ。欠落した文字を読めるあなたなら、俺が見落としてきたものを見つけられるかもしれないと思った」
「私を利用したのですか」
問いは思いのほか鋭く出た。
ユハンは目を伏せた。
「最初は、そうだったかもしれない。君の力が必要だった。だが、今は違う」
「何が違うのですか」
「君がいなければ、俺はまた自分ひとりで証拠を探し、誰にも話さず、失敗したときの責任まで抱え込もうとしていた。君は文書を読むだけでなく、読めないものを読めないと言う。俺にはそれができなかった」
ミレアは返事をしなかった。
彼の過去を聞いても、すぐに許せるわけではない。自分に依頼した理由を隠していたことも、事故について黙っていたことも、軽いことではなかった。
けれど、黙っている人間の顔を、ミレアは知っていた。罪があるからではなく、罪を引き受けたまま手放せなくなった人の顔を。
「今度は、ひとりで決めないでください」
やがてミレアは言った。
「事故の原因を調べるなら、私にもすべて話してください。危険な文書を見つけたときも、隠さないでください」
「分かった」
「それから、私の読解が間違っていたら、遠慮なく言ってください。私はあなたの過去を証明するために雇われたわけではありません」
「分かっている」
ユハンは短く答えた。
その声に、少しだけ力が戻っていた。
ミレアは老人から預かった契約書を開いた。表紙の裏には、古い水路名が記されている。その下に、何者かが削り取った文字の跡があった。
「まず、この契約書を調べましょう」
「事故の記録につながると思うか」
「分かりません。だから、分からないままにしておかないのです」
ユハンは頷き、測量杖を手に立ち上がった。
二人は水路に沿って歩き始めた。枯れた運河の先には、錆びた水門がある。その門柱には、十年前の事故の日付と同じ年号が、薄く刻まれていた。
ミレアは指先で文字をなぞった。
欠けた線の向こうから、まだ誰にも読まれていない過去が、静かに姿を現そうとしていた。




