私の名で結ぶ契約
翌朝、ミレアは集会所の窓を開けた。
水路から運ばれてくる風はまだ冷たかったが、遠くで水門の鎖が鳴っていた。昨夜、皆の前でユハンの手を取ったことが、夢ではなかったのだと、その音が教えてくれる。
机の上には、船頭組合から預かった通行証、農家の境界図、職人組合の古い注文書が積まれていた。どれも調べるべき文書だ。けれど、ミレアが最初に取り出したのは、真新しい一枚の羊皮紙だった。
「工房の名前を決めないといけないな」
測量道具を抱えて入ってきたユハンが言った。
「もう考えているの?」
「昨夜から、いくつか」
「聞かせて」
「水路文書所。測量と契約の店。ユハン測量所」
ミレアは首をかしげた。
「最後のは却下ね」
「やはり?」
「私の名前も入れて」
ユハンは少し目を見開き、それから笑った。
「では、ミレア・ユハン工房?」
「順番が問題なのではないわ。私たちの名前を、どちらも隠さないことが大切なの」
彼女は羊皮紙の中央に、ゆっくりと文字を書いた。
ミレアとユハンの文書・測量工房。
飾り気のない名前だった。けれど、そこには誰かの商会の名も、借りた家の主人の名もない。二人が何をする場所なのかが、そのまま記されている。
「長いな」
「仕事の内容がわかるでしょう」
「看板に収まらない」
「なら、看板は短くして、契約書には正式な名前を書く」
ユハンは頷き、隣に腰を下ろした。
「契約書を作るのか」
「ええ。工房を始めるなら、最初に私たち自身の取り決めを作らなくては」
ミレアは新しい紙の上部に見出しを書いた。
共同経営契約書。
その文字を見た瞬間、胸の奥に古い痛みが走った。サーヴェンの商会で、彼女が何度も書かされた契約書。細かな字で埋められた条項の中に、自分の働く時間も、能力の使用も、報酬の決め方も、すべて他人の都合で定められていた。
名前を書いたあと、読むことを許されなかった文書もあった。
もう、あのころには戻らない。
「手が止まった」
ユハンの声は穏やかだった。
「少しだけ、昔のことを思い出したの」
「今日はやめてもいい」
「ううん。今日、書きたい」
ミレアは筆を握り直した。
「第一条。工房の所有と運営は、ミレアとユハンが同等の権利をもって行う」
「異論なし」
「第二条。依頼の受諾、報酬の決定、文書の保管方法は、二人の合意によって定める。どちらか一人が、相手の知らないところで工房の責任を負わせてはならない」
ユハンは黙って聞いていた。
「第三条。欠落文字の読解、測量、文書の作成に関する技術は、工房に預けるものであって、相手個人の所有物として奪ってはならない」
「ミレア」
「なに?」
「その条文は、君自身を守るためのものだろう」
「私だけではないわ。あなたにも必要よ。技術を持つ人が、働けなくなったとき、病気になったとき、何もできないと決めつけられないために」
ユハンは目を伏せた。事故の責任を一人で背負わされ、測量士としての信用を失った過去を、彼もまた抱えている。
「では、第四条を加えよう」
ユハンはミレアから筆を受け取り、紙に書いた。
どちらか一人が失敗した場合、責任を隠さず、二人で原因を確認する。相手の過失を理由に、人格や権利を奪ってはならない。
ミレアはその文を読んだ。
短い条文だった。だが、これまで自分たちが失ってきたものが、そこには込められていた。
「いい条文ね」
「君が書いたものと同じくらい」
「それなら、第五条は私が書くわ」
彼女は新たな行に筆を運んだ。
工房の利益は、仕事への貢献と必要な経費を明らかにしたうえで、二人が納得する方法で分ける。暮らしの費用と工房の費用を混同しない。
「生活の契約も別にする」とミレアは言った。「工房を一緒にするからといって、暮らしまで曖昧にしてはいけないもの」
ユハンは頷いた。
「君は、結婚についてもそう考えているのか」
筆先が止まった。
「ええ。もしその話をするなら、工房の契約とは別にしたい。夫婦になることが、仕事の権利を決める理由にならないように」
「わかった」
返事があまりに早くて、ミレアは顔を上げた。
「不満ではないの?」
「不満になる理由がない。君と暮らしたいと思うことと、君の仕事を自分のものにしたいと思うことは、別の話だ」
その言葉は、飾られていなかった。だからこそ、ミレアの胸に深く届いた。
しばらく二人は、紙の上に条文を増やしていった。契約を終える条件。依頼人への説明責任。記録の閲覧方法。どちらかが工房を離れる場合の報酬と文書の扱い。
誰かに都合よく隠された空白は、一つも残さない。
昼近くになったころ、船頭組合の代表が訪れた。
「工房の看板は決まったかい」
「正式名は決まりました」
ミレアは書き上がった紙を見せた。
「ミレアとユハンの文書・測量工房。長いけれど、仕事がわかっていい」
「なら、看板は『ミレアとユハン』でどうだ」
代表は笑った。
「水路沿いの誰もが、二人の仕事だとわかる」
ユハンがミレアを見る。
「どうする?」
ミレアは窓の外を見た。陽の光を受けた水路が、細くても確かな流れを見せている。
「それでいいわ。ただし、契約書には正式な名前を使う」
「もちろん」
ミレアは最後の欄に、自分の名前を書いた。
ミレア。
かつて、誰かの契約の端に添えられていた名前ではない。誰かに呼ばれることで価値を与えられる名前でもない。
自分が選び、自分が責任を引き受ける名前だった。
向かい側で、ユハンも署名した。
二人の間に置かれた契約書は、まだ小さな始まりにすぎない。これから家を探し、道具をそろえ、最初の報酬を得なければならない。簡単な未来ではないだろう。
それでもミレアは、紙の上に並んだ二つの署名を見ていた。
今度は、誰かに雇われるためではない。
自分の名で、仕事を選ぶために結んだ契約だった。




