失われた信用の代償
翌朝、監査局の封蝋が商会の正門に貼られた。
赤い蝋には、水路都市の紋章と「保全調査中」の文字が刻まれている。封蝋の前には人だかりができていたが、誰も声を荒らげなかった。昨日までサーヴェンの商会を恐れていた人々は、今やその建物を、崩れかけた堤防を見るような目で見ていた。
ミレアはユハンと並び、通りの向こうからそれを眺めていた。
「本当に、これで終わるのかしら」
「終わりではない。始まったばかりだ」
ユハンはそう言ったが、声には疲れがにじんでいた。
監査局による照合は夜通し続けられた。保管庫から運び出された箱には、旧協定の写しだけでなく、村ごとに異なる負担率を記した別紙や、船頭たちから徴収した通行料の帳簿まで入っていた。どの文書にも、似たような差し替えの跡があった。
正午、集会所の扉が開かれ、監査局の男が外へ出てきた。
「認定が下りました」
人々のざわめきが止まる。
「サーヴェン商会は、旧協定の保管責任を負いながら、署名済みの文書を無断で差し替え、複数の村と船頭組合に不利な契約を押しつけていた。また、差し替えを隠すため、返却前の文書を盗難品と偽り、ミレア殿に罪を負わせようとした」
ミレアは胸の奥で、何かが静かに落ちるのを感じた。
長いあいだ、自分が悪いのだと思わされてきた。読めなかった文字を責められ、書き直しを命じられ、最後には自分の署名があるから逃げられないと言われた。そのすべてが、誰かの都合で組み立てられた檻だった。
「よって、新契約の執行を無効とし、サーヴェン商会に付与されていた水門管理権および水路通行料の徴収権を停止します。商会の保管文書はすべて監査局へ移し、損害額を算定します」
村長の一人が尋ねた。
「サーヴェン本人は?」
「虚偽告発、文書改変、徴収金の不正使用について、正式な聴取を受けることになります。商会の代表権も停止されました」
その言葉が響いたとき、商会の裏口からサーヴェンが連れ出された。
彼は昨日までの仕立てのよい上着を着ていたが、襟元は乱れ、顔色は紙のように白かった。以前なら、彼の姿を見ただけでミレアの足はすくんでいた。しかし今は、胸の奥にあった恐怖よりも、遠い場所から人を見ているような静けさが勝っていた。
サーヴェンはミレアに気づくと、護衛の手を振りほどこうとした。
「ミレア!」
彼女は答えなかった。
「おまえが私を潰したんだぞ!」
「違う」
ミレアは静かに言った。
「あなたが差し替えた文書と、消した文字が、あなたをここまで連れてきたのよ」
「私は町のために――」
「町のためなら、約束を隠さないわ」
サーヴェンの顔が歪んだ。
「おまえの力がなければ、こんなことは起きなかった。余計な文字を見つけるから、皆が疑い始めたんだ」
その言葉に、ミレアの指先が冷たくなった。
だが、隣に立つユハンが一歩前へ出た。
「違う。文字は最初からそこにあった。見ようとしなかったのは、あなたたちだ」
船頭たちが低く同意し、村人たちも次々とうなずいた。
サーヴェンは周囲を見回した。誰一人として彼の目を避けなかった。かつて彼の商会へ頭を下げていた人々が、今は自分の記録と権利を手にして立っている。
監査局の役人に促され、サーヴェンは歩き出した。
その背中へ、誰かが小さく言った。
「信用を売った代金を、払う時が来たんだ」
ミレアはその言葉を聞いたが、振り返らなかった。
商会の門が閉じられる。重い音が通りに響いた。
「気分はどうだ」
ユハンが尋ねた。
「すっきりすると思っていたの。でも、そうでもないわ」
「当然だ。奪われた時間は戻らない」
「ええ。でも、戻らなくても、これからの時間まで奪わせるつもりはない」
ミレアは集会所へ向き直った。そこでは村長たちが、新しい水門管理の方法について話し合いを始めている。商会ひとつに権利を預けるのではなく、各組合から代表を出し、原本を共同で保管する案が出ていた。
監査局の男がミレアに近づいた。
「あなたに頼みがあります。差し替えられた文書を元に戻す作業を、正式な記録として担当してもらえませんか」
「私が?」
「あなたの読み取りが必要です。そして、今度は誰かに雇われる形ではなく、監査局との独立した業務契約にします。報酬も明記する」
ミレアは一瞬、言葉を失った。
自分の能力を、必要だから使わせてほしいと言われた。けれど、そこには命令も、脅しも、隠された条件もなかった。
「契約書を見せてください」
ミレアが言うと、役人は微笑んだ。
「もちろんです」
ユハンが横で笑った。
「そこは、君らしいな」
「もう、読まずに署名することはないもの」
差し出された紙を受け取り、ミレアは指先で文字を確かめた。欠落はない。曖昧な言葉も、片隅に隠された小さな条件もなかった。
彼女は自分の名を、今度は誰にも奪われない場所へ書き込んだ。
ミレア。
その二文字が紙の上で、まっすぐに息をしていた。




