清潔な服、汚れた手
司令室に、数時間ぶりとなる「白い光」が戻った。
予備電源の禍々しい赤が消え、高輝度のLEDが室内を無機質に照らし出す。
換気システムが息を吹き返し、血と焦げの臭いを強引に排気口へと吸い込んでいく。
モニターの中では、あの怪物が、高圧処理室の底でひしゃげた彫像のように静止し、怒りの声を繰り返していた。
「……終わったのね」
リナが、祈るように組んでいた手を解き、膝から崩れ落ちる。
端末に表示される心拍モニターも、落ち着きを取り戻していた。……一人の、致命的な欠損を除いて。
その時、司令室の奥、機材ラックの影にある継ぎ目のない壁が、音もなくスライドした。
「素晴らしい。想定内の損耗率だ。実に模範的な業務遂行だよ」
そこから現れたのは、シワ一つない制服に身を包んだ艦長だった。
彼は磨き上げられた靴音を響かせ、英雄を労うかのような柔和な笑みを浮かべていた。
「艦長……。今までどこに?」
カイロが冷めた視線を向ける。艦長は、司令室に直結した「緊急避難シェルター」に潜んでいたのだ。
護衛チームが食い殺される間も、彼はこの清潔な特等席で、ワインでも飲みながらモニターを眺めていたのだろう。
「リスク管理だよ、エンジニア。……諸君、よくやってくれた。本社への報告書には、君たちの尽力を特筆しておこう」
艦長がカイロの肩を叩こうと手を伸ばした、その時。
重厚な司令室の防熱扉が、外側から破壊しようとする力で叩かれた。
「――開けろッ!! 開けやがれ、このクソッタレがぁ!!」
スピーカー越しではない、生身の怒声。
扉がこじ開けられ、そこから一人の「復讐者」がなだれ込んできた。
ロイドだ。
引き裂かれた制服の間から、凝固しかけた赤黒い肉が覗く。
その瞳は、もはや正気の色を失い、熱に浮かされたような純粋な殺意だけで燃え上がっていた。
「……ロイド君、生きていたのか。それは重畳……」
「黙れッ!!」
ロイドが震える手で、銃口を艦長の眉間に突きつける。安全装置は既に外されている。
「隊長を……アーサーさんを、よくも殺しやがったな! ああ!? 捕獲だと? 成功だと? フザけんなッ! テメエがボタンを押したんだ! テメエが殺したんだよ!!」
ロイドの指が、トリガーに掛かる。
だが、艦長は眉一つ動かさなかった。
彼はゆっくりと、慈愛に満ちた聖職者のような顔でロイドを見つめ、深々と頭を下げた。
「済まなかった、ロイド君。君の怒りはもっともだ」
その意外な言葉に、ロイドの指が止まる。
「だが、理解してほしい。あの状況で私がボタンを押さなければ、君も、そしてこの船の全員が助からなかった。……隊長は、自らを犠牲にして君を救ったんだ。彼は英雄だ」
「……何、を……」
「安心してほしい。彼の遺族……故郷に残された奥方と小さな娘さんのことは、本社が、そして私が責任を持って一生涯、不自由させないことを約束しよう。
……君がここで私を撃てば、その保証も消える。……それでいいのか? 隊長が命を懸けて守った『未来』を、君が壊すのか?」
卑劣な、だが完璧な交渉だった。
ロイドは現場の人間だ。隊長が家族をどれほど愛していたかを知っている。その弱みに、艦長は泥靴で踏み込んだのだ。
ロイドの銃口が、僅かに下がる。殺意が、迷いというノイズに飲み込まれていく。
「……隊長の……家族を……?」
「ああ。私は嘘はつかない。契約には忠実だ」
艦長は、ロイドの肩を優しく抱き寄せるように近づいた。
次の瞬間。
艦長の袖口から、小型の護身用ピストルが滑り出した。
――乾いた銃声が、二発。
「が、はっ……!?」
ロイドの胸部と腹部が跳ね、鮮血が司令室の白い床を汚す。
さらに艦長は、「反撃の可能性」というノイズを消去するように、床に倒れ伏したロイドの手を事務的に撃ち抜いた。
「……あ、ああ……」
リナが短い悲鳴を上げ、顔を背ける。
「……あいにくだが、本社は『精神を病んだ証言者』の維持費を払いたがらない。全滅、あるいは行方不明。それが一番収まりがいい」
艦長がトドメを刺そうと、銃口をロイドの後頭部へ向けた。
(……リナ、合わせろ)
カイロが目配せするより早く、リナの指がコンソールを叩いていた。
彼女はカイロの思考を先回りし、司令室の電気系統の過負荷遮断を強制実行した。
バツンッ、という音と共に、司令室が真の闇に沈む。
「なっ、何だ!? エンジニア、これは何だ!」
暗闇の中、艦長の怒鳴り声が響く。
暗視ゴーグル越しに、カイロは無言でロイドの襟首を掴み、リナが開放したダストシュートへと滑り込ませた
「……死にたくなければ、肺を潰してでも黙ってろ」
苦痛に悶える声が、遠くなる。
数秒後、照明が復旧した。
そこには、カイロとリナ、そして呆然と立ち尽くす艦長だけが残されていた。
「逃げられたのか? どこへ行った!」
「いえ、艦長。……これを見てください」
リナがわずか数秒で捏造した、完璧な死亡ログだ。
赤い光点が、ゴミ山へと続くシュートの底で激しく点滅し、デジタルなノイズと共に――スッと消滅した。
「……心拍停止。出血多量によるショック死です。死体の回収にはコストがかかりますが、どうしますか?」
艦長はモニターを数秒凝視し、やがて、安物のシャンパンを開けたような、乾いた笑い声を漏らした。
「ハハッ、素晴らしい。ゴミとして処理されたのなら、これ以上の『収まり』はない!」
艦長は血の付いた銃をポケットに放り込み、満足げに椅子に深く腰掛けた。
「さて、エンジニア。君たちは有能だ。この『計算』を正しく理解できるなら、本社の正社員として迎えてもいい」
カイロは、艦長の足元に広がる、まだ温かいロイドの血溜まりを見つめた。
「ご英断、ありがとうございます、艦長。……『ボーナス』の査定、楽しみにしていますよ」
リナは、カイロの言葉に合わせるように、深く、恭しく頭を下げた。
その表情は、誰にも見えなかった。
だが、医師だけは血の付いたタブレットを弄ぶ手を止め、二人を値踏みするように見つめていた。
「……ふふ。実に、賢明な決断だ」
地獄のカウントダウンは、まだ止まっていない。




