憤怒の味
モニター越しに響いていた、笛のような呼吸音が唐突に途絶えた。
食堂の床に、食材の残骸のように転がった料理長(検体12)の心拍波形が、リナの端末上で一本の冷たい直線に変わる。
「……『飽きた』な」
カイロが呟くのと同時だった。
料理長の死体に寄り添っていた「影」が、瞬きする間に消失した。
次にそれが現れたのは、食堂から数百メートル離れた通路――居住区の十字路に差し掛かった護衛チームの背後だった。
映像の中の隊員は、背後に走る悪寒に何度も振り返る。
そのたびに、彼の装備に備え付けられたカメラが、ノイズ混じりの絶景を捉える。
彼の視界の端に、蝋人形のような、料理長を模倣した怪物が映り込む。
『……見るな、ロイド』
先行していた隊長が踵を返し、部下の襟首を掴んで強引に視界を正した。
二人の心拍数は乱れてはいなかったが、怪物を引き寄せるには十分だった。
『いいぞ、その調子だ。そのまま高圧処理室へ誘導しろ』
画面越しという安全圏から、艦長が無責任な指示を飛ばす。
カイロは無言でコンソールを操作し、彼らの進行方向にある隔壁を次々と開放していく。
隣に座るリナにとって、今モニターに映っているのは「囮」ではなく、自分たちを守ろうとしている「人間」だった。
それを死地へ導いているという事実が、彼女の薄い胸を締め付ける。
『指令室。……着いたぞ』
二人はついに処理室に辿り着いた。
そこは、船の廃棄物を数万気圧で圧縮し、サイコロ状の塊にするための鋼鉄の部屋だ。
隊長が最後の隔壁を潜ると隊長は立ち止まり、振り返った。
『……隊長?』
『ロイド。壁際に寄れ、落ち着いて、そいつをやり過ごせ』
隊長は、通路の闇から滲み出す「影」を真っ向から見据えていた。
『……エンジニア。聞こえているな』
隊長が通信機越しに、低く、だが鮮明な声で告げた。
『俺たちが囮だってことぐらい、最初から分かってる。……だがな、現場の人間を舐めるなよ。ただ食われるだけの餌で終わるつもりは、ねえよ』
隊長が突撃銃を構える。
彼の心拍数が、戦闘時の「激しく、だが一定のリズム」へと変わっていく。
『指令室。ロイドは帰還させろ。ここから先は……一人で十分だろう』
『ああ、構わない』艦長が即答する。
『隊長……』
隊長は自分のドッグタグの片方を引きちぎり、部下へと投げ渡した。
『……俺の仇なんて討とうとするなよ。故郷の飯のことだけ考えろ。……行け』
隊長が歩き出した。
怪物は、不器用な二足歩行で、必死で息を整える隊員を不思議そうに見つめた。
――ンッ。
短く、不機嫌そうな鼻音が響く。
「それ」は乱暴に隊員を突き飛ばすと、ゆっくりと処理室に向かう。
隔壁を乗り越える際、重力に不慣れな肉体が無様にごろんと転げ落ちた。
直後、重厚な三重隔壁が、隊員と隊長を分断するように轟音を立てて閉ざされる。
隊長は一人、閉鎖空間で怪物と対峙した。
彼の影と、彼を飲み込もうとする怪物の影を交錯させる。
『こ、怖いが、詰まっているんですね』
怪物が、料理長の最期の声を模倣して問いかける。
『怖い? 笑わせるな。……俺の心臓はな、怒りでしか動かねえようにできてんだよ』
隊長は引き金を引いた。
至近距離でのフルオート射撃。発火炎が暗闇を焼き、銃弾が怪物の「ノイズ」のような身体を突き抜ける。
物理的なダメージはない。だが隊長はゆっくりと、自らの肉体を囮にして怪物を部屋の中央に引き寄せていく。
そして彼はナイフを抜き、怪物の首を引き裂いた。
「……見てください、カイロさん」
リナが、祈るように端末を握りしめた。
「隊長の心拍……パニックじゃない。……彼、この状況で、……明確に殺そうとしてます。これが……本物の、プロなんですね」
リナの言葉にかすかな憧れが宿る。
恐怖に支配されず、自分の役割を全うしようとする大人の姿。
彼女が必死に背伸びして辿り着こうとしていた「理想のエンジニア」の姿を、最前線の兵士に重ねていた。
「……そうか」
カイロは短く答え、最後の安全装置を解除した。
医師は獲物を見つめるような表情でモニターを覗き込む。
恐怖に支配されない、純粋な闘争本能の輝き。
それは、この船で初めて人間が怪物に見せた「意地」だった。
だが。
『よくやった、隊長!』
この男には隊長の意地など見えていない。
見えているのは「標的が目標地点に到達した」という事実だけだ。
歓喜に震える無能な指が、『捕獲処理』の起動ボタンを叩き押した。
リナとカイロは処理の開始を捕捉した。
「待て、艦長! まだだ! 隊長がまだ中に!」
カイロが強制終了しようと手を伸ばす。
だが、遅かった。
『――処理シーケンス、起動。加圧開始』
無慈悲なアナウンスと共に、処理室の内部で、数万気圧のプレス機が作動した。
『……あ?』
モニター越しに、短い音が聞こえた気がした。
人間の肉体が、鋼鉄の圧力によって瞬時に潰れる、湿った音。
リナが憧れた「最前線の兵士」は一瞬で床にこびりついた赤黒い泥へと変わっていた。
『……や、やった……! やったぞ!』
艦長の歓喜が響き渡った。
『見たか! 私が、あの怪物の捕獲に成功した!』
司令室に、凍りつくような沈黙が流れた。
リナの喉から、声にならない乾いた音が漏れた。
彼女が必死に背伸びして守ろうとした「論理」も「正義」も、この船ではゴミ同然に扱われる。
プロであることの報いが、味方による圧殺。
そのあまりの理不尽さに、彼女の心が音を立てて砕けた。
彼女の首筋からは、恐怖と絶望の汗が流れ、あの淡いシトラスの香りを無残に洗い流していく。
リナは隣のカイロを見た。
彼は、相変わらず冷徹な瞳でモニターを凝視している。
「カイロさん……どうして。……どうして、止められなかったんですか。あんなに……あんなに頑張っていたのに……」
リナの叫びは、子供のような純粋な悲鳴だった。
カイロは、拳を握りしめてモニターを睨みつけたまま答えない。
高圧プレスを続ける処理室。
そこには、隊長のなれの果てである肉塊と――。
その横で、へし曲げられ、ひしゃげながらも形を保つ怪物が居た。
そして、その口が歪に裂けた。
『……オレノ……シンゾウハ……イカリデシカ……ウゴカネェ……』
怪物の口から発せられたのは、料理長の震える声ではなかった。
つい先程まで生きていた、隊長の、臓腑の底を這うような怒りの声だった。
怪物は、学習したのだ。
「恐怖」だけでなく、「怒り」という新たな感情の味を。
カイロは、リナの震える肩を抱き寄せようとして……その手を止めた。
今、彼女に「優しさ」を与えることは、彼女をこの地獄に適応させる機会を奪うことになる。
カイロは冷徹な瞳は、あの無能な指揮官を見据えた。




