嘘つきたちのブリーフィング
整備区画は司令室から一番遠い位置にある。
全速力で駆けても10分。だが、今のこの船で「全速力」は死を意味した。
気配を消し、円形の狭いハッチをいくつもくぐり抜ける。
ハッチの縁に触れる指先が、冷たい結露で滑るたびに、心臓が嫌な跳ね方をした。
『検体13』はなぜか食堂――つまり、この先の扉の中から動こうとしなかった。
――トンッ、トンッ、トトトトンッ、コッ!
扉の向こう側から響くのは、硬い殻が金属を叩くような、あるいは骨が不自然に擦れるような音だ。
二人は手を繋ぎ、互いの体温を唯一の羅針盤にして扉の前を通過すると、足早に急な階段を昇り、司令室に向かった。
背後から誰かが階段を這い上がってくる幻聴を、論理という名の理性で踏み潰しながら。
やがて、ついに最奥の司令室に辿り着いた。
司令室の重厚な防熱扉が開いた瞬間、カイロの鼻を突いたのは、焦げた回路の臭いと、鉄錆に似た生臭い血の匂いだった。
赤い予備電源の光が、壁に飛び散った飛沫を黒い影のように浮かび上がらせている。
「ハァ……、遅かったな、エンジニア。……ヘヘ、こんな地獄のど真ん中でデート中だったのか?」
「……ロイド、喋るな。傷が開くぞ」
低く、ひび割れた声。
メインモニターを背に、突撃銃を構えた巨漢が、痛々しく包帯に巻かれた部下を嗜めた。
検体08、護衛隊員、ロイド。
検体04、護衛隊長、アーサー。
彼らの防弾ベストは獣に引き裂かれたかのように無残に剥げ、露出した腕には乾きかけの返り血がこびりついている。
その生臭さが、部屋の換気能力の限界を物語っていた。
「怪我はありませんか?」
その傍ら、医療用タブレットを持つ白衣の男が一人。
カイロに近付くと、すぐに触診を始めた。
逆算すると非公開となっている医師、検体01か02。
彼は二人の簡易検査を素早く済ませると、包帯の男の治療に戻った。
「リナ、心拍数は?」
カイロが背後の相棒に、耳打ちするほどの小声で問う。
「安定してます」
リナが手元の端末を隠すように見つめる。
画面には、室内の全員の生命活動が、冷酷な折れ線グラフとなって流れていた。
「あの隊員は100を超えてますが、他の人は安定しています。
……医師は逆に、低すぎます。60前後で……まるで、寝ているみたい」
「だろうな。……まともな奴は、この船にはもういない。……監視は任せる」
カイロは静かに隅の席に座った。尻に伝わる椅子の冷たさが、現実感を少しだけ呼び戻す。
(隠し事ばかりだな。……全員、喉元にナイフを押し当てている顔だ)
防熱扉が再び重々しい音を立てて開いた。
「いやあ、すまん。遅くなったな」
陽気な中年男性が入ってきた。
帰還までの自動操縦を済ませる時間が必要だった、そう笑い飛ばしながら、ふらつく足取りで最前席に向かった。
検体03、宇宙飛行士、アイザック。
彼の作業服からは、こびり付いたアルコール臭がした。
護衛隊員が飛行士に軽口を叩くと、二人して笑いあった。
その不自然なほどに明るい空気が、少しだけ、部屋の緊張を麻痺させた。
『……全員揃ったな。諸君、ブリーフィングを始める』
画面越しの彼は、先ほど脱出ポッドの「樹脂製のレバー」を握らされたカイロの怒りなど知らず、深く、芝居がかった溜息をついた。
検体01か02、艦長。
『不幸な事故だ。皆、済まない……。宇宙農園のリサイクル事業に、あの侵略者が土足で踏み込んできた。
本船を救助艇が接舷可能な状態まで復旧させる必要がある』
友好的な空気は、その一言でガラス細工のように引き裂かれた。
『解決策はある。整備区画の最下層にある高圧処理室だ。あそこなら、あの怪物の物理構造を圧壊することができる』
カイロは周囲を一瞥する。
護衛チームは殺気立っている。銃を握る指先が白くなっているのが、その内心の恐怖を証明していた。
飛行士と医師は読めない。凪いだ水面のような無表情が、逆に悍ましい。
『あいつを高圧処理室へ追い込める。成功すれば救助まで申請、あるいは、順次脱出ポッドの帰還できる用意もある』
リナの体が、ビクリと跳ねた。
脱出路など存在しないという真実を、今すぐこの場に伝えようとする青い正義感が、彼女の喉元までせり上がる。
カイロは、リナの太腿の上に置かれた手を、上から強く押さえつけた。
指先が食い込むほどの、拒絶を許さない暴力的な力。
――黙っていろ。
言葉以上の重圧が、彼女の自由を奪う。
リナは小さく息を呑み、氷のように無機質な横顔を見つめた。
司令室に、ひりつくような沈黙が流れる。
誰もが艦長を信じていない。しかし、その「唯一の希望」という餌を無視できない。
――脱出路など始めから存在しないことを知っている二人を除いて。
(ふざけるな、そんなものは無い。……そもそも、なぜモニター越しだ? どこにいる?)
カイロは視線だけでリナを射抜く。
怪物が「心拍数(感情のノイズ)」を追っているというもう一つの事実。
それをこの荒くれ者の護衛チームや、怪しい医師に教える義理はない。
このルールを知らない彼らは、いつ爆発するか分からない地雷と同じだ。
パニックを起こした奴から順に食われる。
それは、カイロとリナが生き残るための「最も効率的な囮」が、目の前にいることを意味していた。
残酷な計算が、カイロの脳内で瞬時に弾き出される。
リナはカイロの視線の意味を悟り、そのあまりの非情さに言葉を失った。
単なる経験の差ではなく、人間性を切り捨てる「深さ」の差であることを、彼女は突きつけられていた。
そして、それぞれが協力を表明した。
「……わかった。協力しよう」
カイロも艦長に向かって頷いた。
その顔には、一分の隙もない「従順なエンジニア」の仮面が張り付いている。
嘘には嘘を。裏切りには、より冷徹な合理性を。
『……賢明な判断だ。では具体的な作戦の説明だ』




