恐怖というノイズ
リナが震える指でコンソールを叩くと同時に、船内の照明が、パッと消えた。
数秒の空白。
直後、網膜を焼くような赤色の予備電源が、不気味な脈動と共に通路を照らし出す。
「……っ」
リナの喉から漏れかけた短い悲鳴を、カイロは有無を言わさず片手で塞ぎ、彼女の背中を強引に自分へ引き寄せた。
腕の中に収まったリナの体は小さく、そして細かった。
普段、生意気な口を叩いて自分と対等に並ぼうとしていたの面影は、そこにはなかった。
「……リナ。手を止めるな。2分、だろ?」
耳元で囁きながら、もう片方の手で端末のバックライトを最小まで落とす。
あの場違いなシトラスの香りが、彼女の激しい呼吸と共に弾けるように漂った。
静寂が、これほどまでに暴力的な重さを持つとは知らなかった。
壁を隔てた廊下から、「音」が聞こえてくる。
――チョッ、ンッ、チョッ。
重い物体を引き摺るような、不自然な摩擦音。
弾丸をすべて飲み込み、物理法則を嘲笑った怪物は、いま背後の壁の先に居る。
カイロはジャックしたままの船内カメラを、音を立てずに切り替えた。
自分たちが潜む整備室に繋がる、居住区の十字路だ。
そこに、一人の生存者がいた。
男はまだ気づいていない。大声をあげてシャッターを叩き始めた。
『開けてくれ! 締め出されてしまった! 誰か、開けてくれ!』
振り向く必要もない、ドア越しにも聞こえている。
廊下のシャッターが軋む音と絶叫は、リナが叩くキーの音をかき消していた。
その時、画面の奥から「影」が映り込んだ。
怪物だ。
それは、男のすぐ背後まで寄ると、首を不自然な角度に折り曲げて静止した。
だが、すぐには襲わない。
まるで「何かの周波数」を合わせるように、小刻みに震えながら男を観察している。
(……なぜ襲わない?)
『……そ、そ、そこ……、どこです、か?』
男が、背後の気配に気づき、ゆっくりと振り返った。
怪物の「逆さまの唇」と、至近距離で目が合った。
『な、なんだお前は、……た、助けて、助けて、ください……』
男が絶望に顔を歪め、唇が裂けるほど口を開き、声にならない叫び声を上げた。
『た、た、「たすけて」は、どこ、です、か?』
男が絶望に顔を歪めた瞬間――怪物が膨張した。
(……やはりな)
カイロは冷徹に分析する。
怪物は視覚や聴覚だけで動いていない。
パニックによって乱れ、跳ね上がった「生物固有の脈動」を優先的に排除している。
「いいか、リナ。あいつは『心拍』を数えている。恐怖という名のノイズを探しているんだ」
カイロはリナの体を自分の方へ引き寄せ、背後に手を回して逃げ場を奪うように抱きしめた。
リナの心臓が、肋骨を叩き割らんばかりに激しく暴れている。
このままでは、ドアを隔てた怪物に「ここに獲物がいる」とビーコンを発信しているようなものだ。
「……落ち着け。俺の拍動に合わせろ、いいな?」
リナは無言で首を何度も縦に振った。
カイロの胸に顔を埋める彼女の指先が、彼の作業着を破れんばかりに掴んでいる。
カイロは脳内のスイッチを一つずつ切り離していく。
恐怖、焦り、同情。すべてを「無駄な電力消費」としてシャットダウンする。
代わりに、メトロノームのように正確な拍動だけを刻む。
彼の胸から伝わるのは、あまりに一定で、温度を感じさせない一定のリズム。
二人の心拍が、ゆっくりと、一つの波形に溶けていく。
部屋の中から「人間」という存在証明が消え、古い機械のハミングだけが残る。
怪物の影が、ドアの隙間でピタリと動きを止めた。
……数秒の、永遠に近い沈黙。
――ンッ。
短く、不機嫌そうな鼻音が響く。
獲物を失った影は、ズルリと廊下へ引き揚げられていった。
音が遠ざかる。
カイロはさらに数分間、リナを抱きすくめたまま動かなかった。
ようやく力が抜けたリナが、床に膝をつく。
彼女はカイロの手を震える手で引き剥がした。
その瞳には、怪物への恐怖とは別の、カイロという男への「畏怖」が混じっていた。
そして、強がって隠し通そうとしていた「一人の少女」としての体温を晒してしまったことへの、言葉にならない動揺が。
「……カイロさん、……あれ、なんですか……?」
カイロは震えるリナを見下ろした。
その瞳は、まだ凍り付いたままだった。
「さあな、それより急いだほうがいい」
だが、カイロの指先は、わずかに震えていた。
もし、さっき彼女を抱き寄せていなければ。
もし、彼女の体温が自分に伝わっていなければ。
自分もあちら側(死)へ落ちていたかもしれない。
「リナ、続けろ。……早く権限を奪え」
カイロは再び冷徹なエンジニアに戻る。
リナは、乱れた髪を整える余裕もなく、ただ「大人」の顔を必死に再構築しようとして、失敗した。
それでも彼女は、震える手でキーボードに指を置いた。
彼は端末で怪物との距離を測ると、慎重にドアを開けて、暗い廊下を見渡した。




