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計算外の真空

司令室の床に、カイロは崩れ落ちた。

右膝の砕けた感触すら、今は遠い星の出来事のように霞んでいる。

視界の端では、怪物が「かつての指揮官」だった肉塊を、事務的な手際で処理し続けていた。

湿った咀嚼音だけが、死にゆく船の鼓動のように響く。


「……お疲れ様、カイロ君。実に見事でした。感情というバグを排除し、純粋な『機能』へと進化した君の姿は、実に美しい」


医師が、返り血を拭いもせず、平然とした足取りでカイロを見下ろした。

その手には、酸素残量を刻む無慈悲なタブレット。


「酸素は二人分あると言ったね。……だが訂正させてもらうよ。

あれは、その『検体』も含めた数だ。……つまり、人間が座れる席は、最初から『一つ』しかないんだ」


医師は、歪んだ愉悦を隠そうともせずに続けた。


「それと、リナ君のことだがね。彼女を自滅に追い込んだのは私だ。……ああ、睨まないでくれ。

私は嘘はついていない。彼女が見落とした数値は真実だし、彼女の過失で船が壊れたのも事実だ。……私はただ、彼女に『鏡』を見せてあげただけだよ」


そう言って、医師はメインモニターを指差した。

そこには、リナが死の間際に見た「自分の犯した過失」が、これ見よがしに拡大表示されていた。


「…………」


カイロの胸の奥で、死んだはずの「心」が猛烈に熱を帯びた。

平坦だった心拍モニターが、突如として牙を剥くように跳ね上がる。

殺意。憎悪。それはもはや、怪物を欺くための「技術」では抑えきれない、純粋な破壊衝動だった。


ズルリ、と怪物が艦長の残骸を捨て、カイロへと振り返った。

数秒前まで「同類」だと思っていた獲物から、極上のノイズが溢れ出したことに、怪物の複眼が期待に歪む。


「……アハ、アハハッ……!」


カイロは、狂ったように笑い始めた。

彼は医師を一度も睨まず、ただ血塗れの手でリナの形見である端末を、愛おしげに、丁寧に拭い始めた。

「壊れた機械をメンテナンスする」ようなその日常的な動作が、医師の「予測」を初めて狂わせた。

怪物が、捕食のためにゆっくりと、だが確実にカイロへ距離を詰めてくる。


だが、医師は確信していた。

カイロは壊れた。

怒りに身を任せ、このまま怪物に食われ、自分だけが救助艇という「最後の一席」に座る。

最終的には計算通りだ、と。


「全員、クソッタレだ消えちまえ」


カイロが、血塗れの手でコンソールで調査船の全空調システムを殺した(KILL)。


――パツンッ。


調査船の空調が喪失すると、空調の唸りが止まった。

鼓膜が裏返るような「無」の暴力。

宇宙の深淵が直接肺に入り込んでくるような、絶対的な静寂。


船内の気温が急速に下がり始め、計器のガラスに白い氷の華が咲き始める。

酸素の供給は完全に止まった。救助艇が来るまでの10分間、この部屋にいる全員が窒息と凍結の競争をすることになる。


「……非合理的だぞ、カイロ君! これは生存確率に――」


医師の声が、極寒と恐怖で初めて上ずった。

計算外だった。

カイロは生き残ることを放棄し、この場にいる全員を道連れにして「死」という非論理的な解決策を選んだのだ。


「知るかよ。で、どうする? 一緒に死ぬか?」


カイロの首を絞めようとした怪物の動きが、ピタリと止まった。

怪物の節々から、プチプチと小さな音がする。無数の、赤く濁った目玉が、怪物の全身に芽吹いた。


『ずっと隠してましたね、やっと見えました』


怪物の視線は、もはやカイロを向いていなかった。

闇の中で激しく心拍を乱し、計算外の事態に「恐怖」という最強のノイズを垂れ流している「非論理的な生命体」に向けられた。


「……なに、馬鹿な……。心拍を、脈動を制御しろ、私の体――動くな」


医師は、後ずさりながら、震える手でポケットから注射器を取り出そうとした。

だが、彼が信奉していた「論理」は、自らの肉体の震え一つ制御できなかった。

ガタガタと震える手が、薬瓶の蓋を捉えることさえ拒否していた。


カランッ。


無慈悲な音を立てて、命綱である薬瓶が床を転がっていった。

皮肉にも、それは闇の中で蠢く怪物の足元へと転がっていく。


「あ、あ……っ!」


医師は、怪物に近寄らなければ薬を拾えない。だが、動けば死ぬ。

怪物はズルズルと、粘つく音を立てて医師に近付いていく。


『「責任」はどこですか? 探してあげますよ』


パキッ。


怪物の鋭利な脚が、医師の希望だった薬瓶をゴミのように粉々に踏み潰した。


「ま、待て……、落ち着け。……私は本社に、……来るな、……来るなアアアアッ!!」


かつて他者の心を弄んだ知性派の医師は、今やただの「怯える餌」に成り果て、無様に叫び声を上げた。

その絶叫に呼応するように、多足の怪物が、狂喜の合唱を奏でながら医師へと飛びかかった。

カイロは、凍りゆく床の上で、リナの端末から発せられる微かな熱だけを頼りに、全空調システムを再起動した。


怪物は、医師を啜りながら、かつての医師と同じ口調で尋ねた。


『生き残れそうですか?』


「……さあ、どうかな」


残り酸素、4分。

救助艇のドッキングまで、残り3分。

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