捕食者達のシンクロニシティ
二酸化炭素の濁流が脳を浸食し、視界は色を失い、火花のような幻覚が飛び散る。
だが、カイロの意識は鏡面のように静まり返っていた。
リナを連れ去った怪物は、彼女を噛み砕く鈍い音を立てている。
かつての仲間を咀嚼するその音を背景に、カイロはバールを握り直し、一歩、また一歩と艦長へ歩を進めた。
「……狂ってやがる」
艦長は、死の淵で逆に腹をくくった。
彼は握りしめたピストルを見つめた。
まともな精神状態なら、怪物の目の前で引き金を引くことなどできない。
だが、今の艦長を支配しているのは、怪物への恐怖以上に、「感情を失ったカイロ」への根源的な拒絶反応だった。
「来るな……、その目で私を見るな」
艦長は、殺意のノイズを分散させるように、狙いをカイロの頭部から「右足」へとずらした。
殺すためではない。機動力を奪い、この「無機質な死神」を自分から遠ざけるための、生存本能。
――乾いた銃声。
鉛の弾丸が、カイロの右膝を粉砕した。
肉を裂き、骨を砕く衝撃。だが、カイロの心拍は、目的を忘れたように平坦なままだった。
カイロはバランスを崩した。
だが、その表情には苦悶の色すらない。
彼は膝から流れる鮮血を、ただの「漏れ出した冷却水」のように眺め、砕けた骨が突き出す足を無理やり動かして立ち上がろうとした。
怪物が、銃声に反応して「ンッ」と不快そうな鼻音を鳴らす。
だが、怪物はリナという「巨大な獲物」をまだ手放さない。
複数の死者の腕が、リナを包み込み、貪る作業を優先している。
「ハハッ、見たか! 足が壊れれば、ただのゴミだ!」
艦長が勝ち誇り、トドメの銃口をカイロの眉間に向けた、その時だった。
――ガアァンッ!!
司令室の床下、緊急排気用のハッチが爆圧で吹き飛んだ。
そこから飛び出してきたのは、全身が血に塗れ、もはや人間の形を失いかけた「復讐者」だった。
「テメェァアッ!! 許さねえッ! クソ野郎ッ!!」
歪んだ突撃銃をデタラメに乱射しながら、司令室になだれ込んできた。
「隊長の家族まで……その汚ねえ口で……ッ!! 殺す! 殺す殺すッ!! 死ねェェェッ!!」
ロイドだった。
銃弾の一発が、ついに艦長の右肩を根元から吹き飛ばした。
鮮血が霧となって舞い、艦長が持っていたピストルが、千切れた指と共に床を転がる。
「ぎ、ぎゃああッ!! 私の、腕がぁぁ!!」
艦長が絶叫する。
ロイドは銃を投げ捨て、肩で激しく息をしながら、崩れ落ちたカイロを一瞥した。
彼の瞳には、かすかな満足感と、深い哀悼が混じっていた。
「……エンジニアァ。……仇は、取れなかったけどよ。……恩は、返した、ぜ……」
彼はドッグタグを握りしめたまま、その場に崩れ落ちた。
酸素欠乏と出血多量。彼の命の灯火が、最後に大きく火柱を上げ、そして静かに消えた。
「…………」
カイロは、物言わぬ肉塊となったロイドを見つめた。
感謝も、悲しみも湧かない。ただ、彼が作ってくれた「隙」を、冷酷に利用するだけだ。
怪物が、ロイドの乱射と艦長の悲鳴に、あからさまな嫌悪感を示した。
『ンッ……。……うるさい……』
怪物はリナを背中の節足に固定し、ゆっくりと、騒音の主である艦長へと向き直った。
「ひっ、……あ、ああ……、来るな、来るなァ!」
腕を失い、床をのたうち回る艦長。
その正面には、砕けた足を引きずりながら、バールを杖代わりにして立ち上がるカイロ。
その背面には、死者の腕を蠢かせ、唾液を垂らす多足の怪物。
艦長は、挟み撃ちの形になった。
怪物と、怪物の。
カイロは、一切の躊躇なくバールを振り上げた。
そこには憎しみすらない。ただ、「壊れた装置を廃棄する」という純粋な工程管理だけが存在した。
――ドグュッ
カイロのバールが、正面から艦長の左膝を叩き潰す。
悲鳴を上げる間もなく、背面から怪物の巨大な顎が、艦長の脇腹へと食らいついた。
奇妙な、そして完成された「共同作業」だった。
カイロが艦長の急所を打ち、動きを止める。
艦長が恐怖すると、怪物がその肉を効率よく削ぎ落とし、血を啜る。
二体の捕食者が、一人の「バグ」を徹底的に解体していく。
「ぁ、が……、ぁ、ぁぁぁ……っ!」
艦長の絶叫が、司令室の薄い空気を震わせる。
バールが艦長の骨を砕く鈍い衝撃音と、怪物の顎が肉を裂く湿った断裂音。
二つの音が交互に、正確なインターバルで司令室に響き渡る。
それは、この船で失われたはずの「正常な拍動」の代わりだった。
カイロは怪物の顔を見ることなく、ただ最適の位置を提供し続け、怪物はそれに応えるように、提供された部位を効率的に処理していった。
医師は、部屋の隅でその光景を静かに眺めていた。
「……素晴らしい。怪物達の、完全なシンクロだ。……カイロ君、君こそが、この船の『正解』だ」
艦長の身体が、徐々に「肉の残骸」へと変わっていく。
カイロは、返り血を浴びた顔を拭いもせず、無機質な瞳で作業を続けた。
リナを殺した男の肉を、リナを食った怪物と共に、解体する。
この司令室に残されたのは一人の死神と、一匹の怪物。
そして、それらを「観察」する一人の悪魔だけだった。
残り酸素、15分。
救助艇の到着まで、あと少し。
だが、この部屋で呼吸をしているのは、もはや「人間」と呼べる存在ではなかった。




