情報の毒、責任の天秤
司令室の空気は、もはや呼吸するためのものではなかった。
酸素濃度は下がり、意識の端々がチカチカと白く曇る。
肺胞を焼くような渇きと、脳を締め付ける二酸化炭素の濁流。
だが、カイロとリナの意識は、かつてないほどに研ぎ澄まされていた。
二人は手を繋いでいた。
互いの掌から伝わる脈動。リナの心拍が上がれば、カイロが深く長い呼吸でそれを抑え込む。
カイロの体温が冷徹に下がれば、リナの震えがそれを繋ぎ止める。
カイロの殺意が尖れば、リナの柔らかな指の力がそれを丸める。
モニターに表示される二人の心拍波形は、完璧に重なり、一定なリズムを刻んでいた。
それは「愛」ではない。
一人が右脳を、一人が左脳を担う、二人で一つの「殺戮装置」への変貌だった。
二人は、血に濡れた重厚なバールを握りしめ、音もなく床を滑るように移動した。
ターゲットは、怪物の至近距離で、脂汗を流しながら硬直している艦長だ。
怪物の複眼は、艦長の「恐怖」という極上のノイズに釘付けになっている。
今、この瞬間、カイロたちの存在は怪物にとって「ただの動く壁」に過ぎない。
存在しないも同然の、命の火が消えかけた無機物だった。
(……あと三歩。そこで、頭蓋を叩き割る)
カイロが思考を同調させた、その時だった。
リナの腕に装着された端末が、微かに、だが致命的な振動を伝えた。
声はない。音もない。ただ、網膜に直接焼き付くような、ダイレクトメッセージ。
送り主は、部屋の隅で一度も視線を合わせていなかった医師。
同時に、司令室のメインモニターにも、まるで審判の宣告のように映し出された。
[ ANALYSIS REPORT : RESPONSIBILITY DETERMINATION ]
リナによる船体破断:347.4%
リナによる死亡事故:7名 死亡
リナによる死亡危機:4名 危機
リナによる怪物開放:1体 犯罪
「……お、お前のせいじゃないか!」
ここぞとばかりに醜く歪んだ口角を吊り上げた。
医師が提供した「事実」という名の劇毒。
その目は、武器を使わず少女の精神を切り刻んだ悦びに満ちていた。
繋いだ手から、濁流のようなノイズが流れ込んできた。
リナの心拍数が、一瞬で跳ね上がる。
共鳴していたカイロの精神が、リナの「罪悪感」という猛毒に侵食され、構築された同期が音を立てて崩壊する。
彼女が必死に背伸びして、カイロの隣に立とうと積み上げてきた軋みが、戦犯宣告によって、ついに瓦解した。
(リナ! 見るな! 考えるなッ! それは嘘だ、奴が仕組んだ罠だ!)
カイロはリナの手を壊れるほど強く握った。だが、一度決壊した感情のダムは止まらない。
リナの目から、大粒の涙が零れ落ちる。
それは、この静寂の密室において、あまりに巨大な「命の音」だった。
ガチリ、と扉の外の怪物が首を鳴らした。
無数の死者の腕で構成された「首」が、機械的な速度でリナへと向けられる。
その動きは、獲物の位置を確定させたセンサーそのものだった。
「……ごめ……なさ……」
リナの唇が、謝罪の形に動いた。それは、自分を責める子供の震えだった。
次の瞬間、多足の怪物が、爆圧のような速度で司令室へなだれ込んできた。
カイロは叫ぼうとした。だが、自分の口を自分の手で塞ぎ、その場に組み伏せるしかなかった。
声を出せば、自分も連れて行かれる。
冷徹なエンジニアとしての計算が、リナを救うという選択肢を「エラー」として弾き出した。
彼女は抵抗しなかった。
怪物の無数の節足が、リナの身体を優しく、そして容赦なく絡め取る。
『悔しいのは本気の証だよ。……背伸びすることは大事。ぼくは背伸びして、こうして、宇宙飛行士になった』
死んだはずの飛行士の声が、業務中だけ見せる真面目な言葉が、歪な電子音のように模倣された。
かつての優しさを皮肉に反転させたその言葉が、リナへのトドメとなった。
リナを包み込む怪物の背後で、無表情だった医師が、初めて満足げに口角を吊り上げた。
彼にとってこれは、最も興味深い「被験者の反応」に過ぎなかったのだ。
司令室に、再び、死よりも深い静寂が戻る。
カイロの手に残ったのは、引きちぎられたリナの端末と、消えかかった彼女の体温だけだった。
その温もりさえも、急速に船内の冷気に奪われていく。
「これで疫病神が排除された訳か。カドクラ! 酸素は間に合うのか?」
「いえ。あと一人分、足りませんね」
医師は表情すら変えず、返した。
カイロは応えない。
艦長の言葉も、医師の嘲笑も、もはや彼の耳には届いていなかった。
カイロは、手元に残されたリナの端末を見つめた。
そこには、彼女を死に追いやった「情報の毒」が、そのまま残っている。
カイロの脳内で「一つの結論」を導き出した。
艦長か医師。どちらかが、リナを殺した。
いや、この場に生きている二人が、結託して彼女を怪物への供物としたのだ。
カイロの心拍は、もはや波打つのを止めていた。
死人のような、平坦な直線。だが、彼は生きている。
感情を、心拍を、人間としての機能を完全に削ぎ落した。
ただの復讐という名の機械として、どちらでもいい、あるいは、どちらも殺せばいい。
彼の瞳から光が消え、代わりに底なしの虚無が宿った。
「……酸素、少ないですね」
カイロの声は、合成音声のように抑揚がなかった。
彼は血の付いたバールを拾い上げ、艦長と医師を、ただの「バグ」として見据えた。
排除すべき、不必要な余剰資源。
リナに群がる怪物が、一瞬、カイロを見た。
――ンッ。
短く、不機嫌そうな鼻音が響く。
まるで、「同類」を見つけたと言わんばかりの共鳴。
カイロは怪物を無視して、艦長に近寄った。
人間であることを辞めた。ただ一人を屠るための、研ぎ澄まされた凶器へと成り果てた。




