共犯者の心拍
司令室の空気は、もはや酸素の混合物ではなく、濃密な「死」そのものへと変質していた。
隔壁の外に佇む「多足の怪物」――かつての隊員たちの肉と装備を縫い合わせた悍ましい百足が、扉の隙間から無数の死者の指を這わせている。
恐怖、怒り、あるいは感情そのものを抱けば、喰われる。
その静寂を、場違いな笑い声が切り裂いた。
「……わはは! なんだよアーサー、そんな格好しやがって。……お前、次の仮装パーティの主役確定だな」
飛行士のアイザックだった。
彼は千鳥足で、無防備に怪物の前へと歩み寄った。
手には空になったウイスキーの瓶。
アルコールで麻痺した脳は、目の前の地獄を「愉快な悪夢」として処理していた。
怪物が、ゆっくりとアイザックを見下ろす。
その「首」を構成する死者の腕たちが、アイザックを招くように蠢いた。
『アイ、ザック、また、勤務中に、飲むのか?』
「飲むさ! 当たり前だろ。……おい、お前らも来いよ! 宴会の始まりだ!」
アイザックが怪物の「腹」――防弾ベストが食い込んだ節足の部分――を親しげに叩く。
怪物はアイザックの笑い声に合わせるように、全身の装備品を「カチャ、カチャ」と鳴らし、複数の声で笑い始めた。
「ハッハッハ。お前の、あの、泣き虫野郎の話、また聞かせろよ?」
『ワハハハハ、ああ……』
司令室に、狂ったような談笑が響き渡る。
リナは目を見開き、カイロは奥歯を噛み締めた。
アイザックの笑い声が、感情の閾値を突破した、その瞬間だった。
――ボリッ。
乾いた、小枝を折るような音がした。
次の瞬間、アイザックの笑い声は消失した。
怪物の頭部から突き出した、鋭利な脚の一本が、アイザックの頭部を「捕食」していた。
首から上がなくなったアイザックの身体が、一瞬だけ立ったまま痙攣し、やがて床に崩れ落ちる。
怪物はアイザックの身体を死者の腕で抱え上げ、まるで慈しむように、その断面から溢れるものを啜り始めた。
「…………」
4人は、石像のように静止した。
艦長はホルスターに指をかけ、医師は眼鏡の奥の瞳をギラつかせ、カイロとリナは互いの存在さえも消そうと呼吸を止めた。
アイザックを咀嚼する「ボリ、ボリ」という湿った音だけが、高機能な換気システムに吸い込まれていく。
艦長の狡猾な瞳が、カイロ達を一瞥した。
彼は腰のホルスターからピストルを抜き、カイロへと向けた。
酸素を独占したい。
殺せば、全てが解決すると信じたい、原始的な逃避。
その瞬間、怪物が「食事」を止め、ゆっくりと艦長の方を向いた。
銃口を向ける、という明確な「攻撃の意思」。それは、怪物にとって最高に刺激的なノイズだ。
艦長は、怪物の複眼と目が合った瞬間、目線を反らした。
怪物は艦長に近寄り、その大きな「顔」を、艦長の顔の数センチ先まで近づけた。
艦長の頬を、アイザックの血が滴り落ちる。
怪物は興味深そうに、艦長の「恐怖」を観察している。
艦長は、自分も「食事の一部」として認識されないよう、脂汗を流しながら動きを止めた。
カイロは、暗闇の中で端末のバックライトを最小に絞り、震えるリナの視界に文字を打ち込んだ。
――感情を出せば、喰われる
リナが、小さく頷く。
カイロはさらに文字を続ける。
――艦長を、殺す
――感情を出せば、喰われる
――殺意が上がれば、俺たちも死ぬ。手を繋げ。殺意を半分に、心拍を半分に分散しろ
リナが、カイロの手を握り返した。
その手は氷のように冷たく、だが、生きようとする執念で脈打っていた。
彼女は、憧れていた大人の「愛」や「体温」を求めて手を繋いだのではない。
一人の男を効率的に排除するための「周辺機器」として、カイロに接続したのだ。
カイロは計算していた。
一人で艦長を殺そうとすれば、怒りや殺意の感情が、怪物を刺激する。
だが、殺意を作業として処理すれば、一人あたりの感情負荷は下がるはずだ。
「……半分ずつ、殺す」
カイロは声に出さず、唇だけを動かした。
二人は手を繋いだまま、ゆっくりと立ち上がる。
呼吸を合わせる。心拍を合わせる。
一人が右脳を、一人が左脳を担うかのように、二人は一つの「殺害機械」へと変貌していく。
二人は、バールを握りしめた。
リナの瞳からは、ついに光が消えていた。
床では、艦長が怪物の至近距離で、吐き気を堪えながら怪物と対峙している。
医師は、部屋の隅でその全てを、心拍モニターを眺めるように、満足げに静観していた。
残り酸素、45分。
司令室という密室の中で、人間と怪物の境界線が、音もなく溶け始めていた。




