お盆について思うこと
お盆の最後の日を、送り盆という。
迎え盆で迎えた先祖の魂を、再びあの世へ送る日。
私は、あの世が本当に存在するのか、死んだ人の魂がそこにいるのか、確かめる術を持たない。
だから、盲目的に信じるつもりもなければ、冷めた態度で否定するつもりもない。
ただ、ひとつだけ確かなことがある。
私には先祖がいる。
両親がいて、祖父母がいて、そのまた上がいる。
名前も顔も知らない人々が、途切れることなく命をつないできた。
その長い軌跡の末端に、今の私がいる。
それだけのことに、一礼を捧げる価値はあると思う。
もちろん、夏休みを好きなように過ごしてもいい。
友人と遊び、旅行へ行き、冷たいものを食べて、「それが今時だ」と笑ってもいい。
私は、それを否定したいわけではない。
ただ、年に一度くらい、自分より遥かに長い時間へ思いを馳せるのも悪くないと思う。
蝉の声を聞きながら、夕暮れの空を眺める。
自分が生まれるよりずっと前から、この土地には夏があり、暑さがあり、夜があり、そして人が生きていた。
その中で、誰かが生まれ、誰かが死んだ。
喜んだ人もいれば、悲しんだ人もいた。
何かを願った人もいれば、何も願わず一日を終えた人もいた。
その一人ひとりの人生が、私には見えないところで連なっている。
──やがて日が落ちる。
送り火の煙が、ゆっくりと夜の中へ消えていく。
本当に魂が煙とともにあの世へ帰っていくのかは分からない。
それでも私は、その煙を見ながら思う。
人は死んだ瞬間に、すべてが消えてしまうわけではないのではないか、と。
生前の声を聞くことはできない。
どんな顔で笑っていたのかも、何を考えていたのかも、いつか分からなくなる。
けれど、その人が残した言葉や考え方は、誰かの中に残る。
その人から受け取ったものを、また誰かへ渡す人がいる。
そうして人間は、自分では気づかないほど長い時間をかけて、次の誰かへ何かを託していく。
新しいものを取り入れていくことも大切だ。
それでも、昔から続いてきた心地よい習慣を、何気なく次の世代へ渡していくことも、悪くないと思う。
お盆とは、死者の魂を迎え、そして送る儀式なのだろう。
けれど同時に、私たちがどこから来たのかを思い出すための時間でもあるのだと思う。
何百年、何千年という時間の中で、数え切れないほどの生と死が繰り返されてきた。
その果てに、今の私たちがいる。
そしていつか、私たちもまた死ぬ。
そのとき、私たち自身の思想は終わるのかもしれない。
けれど、それが消えてなくなるとは限らない。
誰かが覚えている限り。
誰かが受け継ぐ限り。
誰かの中で、また新しい何かへ変わっていく限り。
人間は、死してなお、生き続けていくのかもしれない。
だから私は、今年も先祖を送り出す。
あの世があるのかどうかは分からない。
ただ、ここまで続いてきた命の軌跡に、静かに一礼をして。




