小夜と来佳は体育の授業を見学していた
以前の私は、明るい時間に外を出歩くのが好きではなかった。
高校に行かなければならないから、仕方なく外に出るけれど、そのときはなるべく日差しを浴びないように、建物の影に隠れるようにして歩く。
買い物に行くときは暗くなってから、深く帽子をかぶって近場ですませる。
肌が弱いから日に当たりたくない、という理由もあったけれど、単純に明るいところが嫌いだった。
黒い髪と濃紺の制服より、もっと暗い色にまぎれていたかった。できれば誰にも姿を見られたくなかったし、声をかけられたくもなかった。
そんな私が、今は日なたの中を笑いながら歩いている。
「小夜ちゃん、もっと速く歩こう」
来佳が振り向き、弾んだ声で私に声をかけた。彼女が杖をつく音は軽快で、足の調子はいいのだと安心しつつ、私は来佳の隣に並ぶ。
「ペース落とさないと、疲れちゃうよ。公園まで行くんでしょ」
「だってー……」
頬を膨らませる来佳。私のアドバイスに納得がいかないようだ。
私が笑いながら来佳の頬を人差し指でちょん、とつつくと、口からぷしゅ、と音を立てて空気が抜けた。
来佳はそのまま頬をぺちゃんこにして、唇をとがらせたおかしな顔でこちらに向けてくるものだから、つい噴きだしてしまった。
来佳も笑う。彼女の心地よい笑い声が耳をくすぐる。
さらに変顔を見せつけてくる来佳。声にならない声を出しつつ笑う私。
そのやりとりが一段落すると、来佳は「あのね」と小声で話し始めた。
「小夜ちゃんと出かけるの、昨日から楽しみにしてたんだー。だからつい張り切り過ぎちゃった。もうちょっとゆっくり歩くね。心配してくれてありがとう、小夜ちゃん」
小夜ちゃん。
来佳に名前を呼ばれると、まるで私自身がとても良いものになれたような気分になる。
雑に投げ捨てたりしないで、そっと大切に両手で包み込んでくれているような。
もちろん、来佳はそこまでの気持ちを込めているわけではないだろう。
だけど私は大切にされていると感じている。
私も、彼女の名前を大切に呼びたい。
「うん、ゆっくり行こう。疲れたらいつでも言ってね、来佳」
今日も、彼女の名前を慎重に、だけどはっきりと呼ぶ。
自分の中にあるあたたかさを全てかき集めて、捧げ持つようにしながら。
明日もその次の日も、来佳と一緒に歩けることを願いながら。
来佳と初めて会ったのは、初夏。駅から学校に向かう道だった。
私はできるだけギリギリの時間に着くように、ゆっくりと歩いていた。いつものように日が差さない方の道を選んで。
そのときは特に、同じ学校で顔を知っている人間には、なるべく会いたくなかった。
学校に入れば嫌でも顔を合わせなければならないのだから、通学時間くらいはひとりでいたい。
もともと自分が周りから浮いていることに気づいていた。友だちを作ることはとっくにあきらめてもいた。
話すときにじっと相手の顔を見るだけで、居心地悪そうにされることはしょっちゅうだった。反対に、こちらがなにもしていないのに親しげに話しかけてくる子もいた。
そういう子は、最初は私の伸ばしっぱなしの髪だとか、見た目だとかを褒めそやすけれど、私の感情表現や言葉が足りないせいか、だんだんと微妙な会話になっていき、気がつけば相手は去っていってしまう。
その初夏のころは、浮いているどころではなく、周りからはっきりと嫌われていた、と思う。
毎日のように、こちらに聞こえるように噂話をする人たちがいた。すれ違いざまににらみつけてくる人もいた。
『聞いた? 杉野さん、先輩にいい顔してたくせに、ひどい振り方したって』
『先輩、かわいそう』
『ちょっと綺麗だからって、何様?』
『性格最悪だよね、あの子』
まるでドラマかなにかのような会話をしている、と驚きあきれた。
噂話をしている人たちは知っているのだろうか、「先輩」が私にしつこくつきまとっていたことを。
我慢ができず、つきまとうのをやめてほしいと私が頼むと、先輩は私を口汚くののしり、去って行ったのだ。
噂に腹を立てつつ、納得をしてしまった部分もあった。それは私の性格が最悪、というところ。
私の中身はきっと本当に「最悪」なのだろう。だから誰とも心を通じ合わせることができず、ひとりきりなのだろう。
それなら、もういい。投げ捨てるように心でつぶやく。
もう、誰とも親しくならなくてもいい。誰からも見られない存在になりたい。
たとえば体が光を反射しなければいいのに。そうしたらずっと暗闇にまぎれていられるのに。
そんな考えに心を沈ませていたとき、前方に同じ学校の女生徒が歩いているのに気づいた。
背中にリュックをしょって、一歩一歩、杖をついて歩いている。
杖は彼女の腰あたりの高さの細いもので、それでも彼女の体をしっかりと支えていた。
怪我をしたのだろうか。大変そうだな。
なんとなく彼女を追い抜いてしまうのがしのびなくて、速度を落として歩いていたとき、彼女が杖を落とした。リュックを背負い直そうとして、手が杖から離れたのだ。
しゃがむことが難しいのか、彼女はあきらかに慌てている。
同じ学校の子とあまりかかわりたくはない。このまま無視して行ってしまおうか……。
そう思っていたのに、足が勝手に彼女の元へと向かった。
杖が倒れたのは車道側。交通量の少ない道とはいえ、いきなり車や自転車がやってきて、事故が起きるかもしれない。
私は急いで駆け寄り、杖を拾う。
黙って杖を差し出した私に、彼女は一瞬驚いていたけれど、すぐに笑顔になった。
「ありがとうございます! 助かりました」
彼女の声は、日の光のようにまっすぐ私に届いた。心の底からお礼を言っているのだと感じる。
私はなぜか落ち着かなくなり、口の中で小さく「いえ」と答えるしかできなかった。
用は済んだのだから、そのまま立ち去ってもよかった。だけど彼女が私に話しかけてきたから、脱出する機会を逃してしまった。
「何年生ですか?」
「二年」
「同じだ! 私も二年」
おしゃべりなタイプなのかな、だとしたら苦手だな……と思いつつ、彼女の姿をなんとなく眺める。
肩より少し上の長さの髪が、歩くたびにふわふわと揺れている。髪色も瞳も少し明るめのブラウンで、日差しの中では、より色素が薄く見えた。
「クラスは三組なんだ」
「えっ? 私もだけど」
彼女の言葉に驚いて声を上げてしまった。始業式から今まで、彼女の姿を一度も見たことがない。
隣の席がずっと空いているのは気になっていたけれど、不登校の人がいるのだと思っていた。
彼女はなんということはない、という風に話を続ける。
「わあ、クラスも一緒。よろしくね。私は、久留栖来佳。あなたは?」
「……杉野小夜」
よろしく、とは言わなかった。どうせ彼女もすぐに離れていくのだろうと思っていたから。
来佳と一緒に教室に入ると、一年で同じクラスだったらしい生徒たちが歓声を上げて彼女を迎えた。私は輪からそっと離れ、興味のないふりを装う。
漏れ聞こえてくる会話をつなげたところ、来佳は半年前に病気が発覚し、入院をしていたらしい。
治療が成功し、現在体調に問題はないけれど、足に麻痺が残っていて、杖が必要な生活なのだという。リハビリを続けていけば、杖がなくても歩けるようになるらしい……。
来佳は終始明るい顔で語っていた。周りも彼女につられて声が明るくなっていく。
治療やリハビリ、少し聞いただけでも苦難の出来事なのに。彼女はきっとすごく強い人なんだろう。クラスの中心にいる来佳を、私からは遠く離れた人なのだと感じていた。
空いていた私の隣は、来佳の席になった。
来佳は私が素っ気なくしても気にせず、事あるごとに話しかけてきた。「気まずい」という言葉は、どうやら彼女の辞書には存在していないらしかった。
「ああっ」
授業中、来佳がいきなり声を上げた。ただし小声なので、近くにいる人にしか聞こえてない。
来佳は肩を落とし、目に見えてしょんぼりした顔で、私の方を向いた。
「あのね、杉野さん。予備のシャーペン持ってる? 貸してもらってもいい……?」
よほどのことがあったのかと思えば、そんなことか。私はどうでもいいという気持ちを隠さずに「いいけど」と答えた。
そのとき、あれ、と思った。来佳のペンケースから、シャーペンらしきものがちらりと見えていたからだ。来佳は「実はね」とそれを取り出した。
「シャーペンと間違って、ペン型のライト持ってきちゃったんだー。そっくりだったから、つい……」
シャーペンらしきものはLEDライトだったんだ。それにしたって……。
似てるからって、そのふたつを間違うことある?
確かにペン型というだけあってクリップ部分は似ているけれど、来佳が見せてくれたライトは、字を書くには本体がしっかりしすぎていて持ちにくそうで、明らかにシャーペンとは違っていた。ケースに入れるときに気づかなかったんだろうか。どれだけうっかりなの?
どうしよう。おかしい。
慌てて口をおさえたけど、間に合わなかった。気がつくと笑い声が出てしまっていた。
先生も、周りのみんなも、驚いてこちらを見ていた。私だってびっくりだ。学校で声を出して笑ったことなんてない。
「ち、違うんです! 杉野さんは悪くないんですっ」
私が肩をふるわせている隣で、突然来佳が声を上げた。同時に立ち上がろうとしたけれどうまくいかず、椅子がガタガタと音を立てる。
「私がシャーペンと間違ってライトを持ってきちゃったから、貸してもらおうと話しかけたんですっ」
そこでなぜか手にしたライトのスイッチを入れ、天井に向けた来佳。
謎の行動と必死さにクラスの人たちもこらえきれなくなったらしい。あちこちで小さな笑い声が上がり、気がつけば大爆笑の渦が巻き起こっていた。
クラスで親しく話す相手がいなかった私は、教室にいてもみんなから切り離された存在だと思っていた。それなのに、今はみんなと一緒に声を出して笑っている。不思議な気持ちだった。
来佳はといえば、すまなさそうな顔で両手を合わせ、私に「ごめんね」と謝っていた。
「いいよ」と首を振ってみせると、来佳はぱっと笑顔になって、はずみで手にしたままだったライトを何度もオンオフしてしまう。それがさらなる笑いの波を起こす。もちろん、私もその波に乗っていた。
ライト事件をきっかけに、私は来佳と話すようになった。
「今日はちゃんとペン持ってきた?」
からかい口調で話しかけると、来佳は「持ってきてますー!」とむきになりつつ、ペンケースの中のものをひとつひとつ取り出して私に見せた。
その日は忘れ物はなかったが、なぜかあめ玉が大量に出てきて、また笑わせられてしまった。
「見つかってしまったものは仕方がない。小夜ちゃんも同罪ね」
来佳は私のポケットに飴をいくつも放り込んできた。文句を言おうとして、「小夜」と下の名前で呼ばれたことに気がついた。嫌な感じはなかった。
ただ、来佳が私と距離を縮めようとしてくれたことに驚いていた。
私が来佳以外の人間とは会話をしない、群れから外れた存在だということは、来佳はとっくに知っているはずだ。だけど気にする素振りも見せず、自然に接してくれる。こんなことは初めてだった。
他の人間と違うなと思ったところはまだある。来佳が私の見た目を評価したときだ。
「杉野さんって、すっごくきれいだね。髪も、からすの濡羽色っていうのかな? 光に当たると、つやつやの髪にきれいな輪っかができるの。素敵だなあ」
まっすぐな眼差しで伝える来佳には、否定的な気持ちを一切感じなかった。
髪を褒められたことなら何度かある。だけどそれは「杉野さんはいいよね。私なんか……」という自分を下げる発言だった。そのたびに、私はこう思っていた。
私は人に劣等感を感じさせるほどの人間ではない。お願いだからそんな風に言わないで欲しい……と。
そうした過去を振り払うかのように、来佳に褒められるのは心地がよかった。もっと名前を呼ばれたいとも思った。
だから私はこう答えた。
「もう、入れすぎでしょ。ポケットパンパンになっちゃったよ、来佳」
体育の授業のとき、来佳はいつも見学している。移動が大変だから教室で自習をしていてもいいよ、と先生は言っていたけれど、来佳は毎回きちんと見学をしていた。
「来佳、階段降りるのうまくなってるね」
「本当? 自分でもちょっと早くなったかなあって思ってたんだ」
会話をしながら私と来佳はゆっくりと歩く。他のみんなはすでに更衣室に移動していた。
「小夜ちゃん、着替えの時間大丈夫?」
「……いいの。私も今日は見学だから。届けも出してる」
「そうなの? 具合悪い? 大丈夫?」
「うん……」
私のあいまいな答えを聞いて、来佳は気づいただろうか。私が病気で休むのではなく、ただのサボリだということに。
今日は体育館でバスケットボールだ。これが持久走やマット運動なら私も普通に出席していた。だけど団体競技は出たくなかった。
先月にバレーボールをやったとき、私をよく思っていない子たちからあからさまに無視をされたのだ。私をいないものとしてボールを全然回してこない。そうしておいて遠くから嫌な笑みを浮かべ、私の反応をうかがっている。
もともと仲が良くない人に無視をされてもかまわない。ただ、それを来佳に見られるのはなぜか、嫌だった。
体育館の隅、なるべくボールが飛んで来なさそうな場所に向かう。ちょうど分厚いマットがあったので、そこに来佳と並んで腰掛けた。
授業の様子をなんとなく眺める。先生の話、班分け、試合開始……。生徒たちは色とりどりの歓声を上げている。
隣の来佳は最初、「やった」「すごい」と拳を握りながら試合を応援していたのだけれど、しばらくすると静かになった。開かれた手がぽとりと膝に落ちる。
どうしたのだろう。心配になって声をかけるより前に、来佳は口を開いた。
「私ね、運動神経あんまり良くないんだ」
「……そんな気はしてた」
普段の来佳の挙動から思い当たる点が満載だ。
鞄にノートを入れようとしてなぜか入れ損ねていることがある。物を落とすこともしょっちゅうで、隣の席の私が拾う係になっている。
最初は病気の影響かと思って心配していたのだけれど、上半身に麻痺は全くないらしい。つまり、ただのドジなのだ。
「うわー、やっぱりバレてたかあ」
来佳は無理に笑っているように見えた。
花がしぼむように少しずつうつむき、完全に顔が見えなくなってしまう。その姿勢のまま、来佳は小さい声で続けた。
「昨日、夢見たんだ。私が普通に体育に出席してる夢。今日の授業と同じ、バスケットだったよ。コートに立って、『あれっ、私、普通に歩けるじゃない!』って自分にびっくりしてた。なんでもできる気がしてボールに突っ込んでいったけど、夢の中でも運動音痴は変わらなくて、全然ドリブルできなかった。だけどちゃんと走れたんだよ。目が覚めたあともドキドキしてた」
その口調が寂しげで、わたしは「うん」と先をうながすことしかできない。
「病気になる前は、走るのも嫌、球技も嫌ー、って文句ばっかり言ってたのに、いざできなくなると、騒ぎながら体育をしてた時間が恋しくなっちゃう。調子いいのかなあ、私」
コートで走り回っているクラスメイトの声が、来佳の小さな声をかき消すように響いている。
来佳のどうしようもない悲しさが、座っているマット越しにじわりと伝わってくる気がした。
私は急に恥ずかしくなった。どんな困難があっても笑っている来佳のことを、明るくて強い人なんだと、遠くを眺めるように見ていたからだ。
強いだけの人間なんているわけがない。来佳は今、私のすぐ隣にいて、悲しんでいるではないか。
「ごめん」
気がつくと、そう口走っていた。
「えっ? どうして小夜ちゃんが謝るの?」
「あ、ううん、なんでも……」
慌ててごまかす。なぜなら私が謝ったのは自分勝手な気持ちだから。『私は走れるのに、くだらない理由で体育をサボっているから、来佳に悪いと思った』なんて言ったら、来佳はどう思う? もっと悲しませてしまうのではないだろうか?
「なんでもないって顔じゃないよ。聞かせて?」
だけど来佳は食い下がってきた。
自分の悲しみに浸ることもせず、私のことばかり気にしている。
来佳のブラウンの瞳に私が映っているのがわかるくらい、来佳はぐいぐいと近づいてきて答えを求めるので、私はついに降参した。
大きく息を吐いてから理由を話し始めた。
仮病を使って体育を休んだこと。
理由は一部の女子による無視やからかいといった不可解な行動であること。女子たちのそうした行動は、以前の先輩との一件で、私が一方的に悪いのだと思い込んでいるからだということ……。
「そうだったの……。つらかったね、小夜ちゃん。小夜ちゃんはただ、先輩とのお付き合いを断っただけなのに……」
来佳は涙目になりながら、私の背中を撫でてくれた。手の温かさが背中に広がる。どうして私に共感してくれるんだろう。不思議だった。
「……こんなことでサボるなんてばかばかしいって思わないの?」
「どうして? そんなこと思うわけないよ」
「だって……」
来佳と比べたら、私の見学理由なんて……。
私が言い淀んでいると、来佳は私の背中をさらに撫でながら言った。
「小夜ちゃんはやさしいねえ」
「え、なんで?」
「だって、私のことを考えてくれたから、自分の悩みがたいしたことないんじゃないかって思っちゃったんでしょ?」
「……ごめん」
素直に白状してしまった。まったく来佳の言う通りだったから。
私は言葉を継ぐことができず、「私はね」と口を開いた来佳の話に耳を傾けた。
「私はね、悩みって、大きいとか小さいとか、上とか下とかないって思うんだ。どんな悩みでも、イライラしたり悲しかったり、焦ったりする。いろんな感情が生まれる。みんな同じなんだよ。悩みの扱い方もそう。見ないふりして引き出しに押し込んでたらダメだなって思うよ。一回表に出して、お日さまに当てないと」
お日さま、という言葉にドキリとした。
私が常々、日に当たりたくない、日陰にいたいと思っていたからだ。
自分の悩みに対する態度もそうだったかもしれない。どうでもいいと投げ捨てて、見ないふりをしていた。
来佳は自分の足をさすりながら話を続けた。
「表に出せたら、どうすれば悩みが小さくなるかを考えるよね。それが無理でも、悩んでる自分を自分で励ましたりする。いろいろ試してみて、自分が一番気分良く過ごせる方法を探しながら、毎日やっていく。私はそんな感じで、自分へのご褒美スイーツ食べたり、リハビリしたりしてるんだ。小夜ちゃんの悩みも、少しずつでも軽くなっていくといいなあ」
それでも、と言いかけた言葉を飲み込む。それでも来佳の悩みは、私のものとは全く違う気がした。
来佳が普通に走り回った夢から覚めたとき、現実を突きつけられて胸を刺すような痛みに苦しんでいたかもしれない。
来佳が今のようにフラットな気持ちで「悩み」と向き合えるようになるまで、どのくらいの時間がかかったんだろう。
私に向けられる笑顔は、どれだけの涙と痛みを乗り越えた表情なんだろう。
気がつくと、体育館の窓から射し込む光が来佳を照らしていた。
太陽の位置が変わったようで、さっきまで薄暗かった体育館の片隅も明るくなっていく。
来佳の、ふわふわした髪や細い肩、懸命に歩き続けている足を、光は優しく縁取っている。
どうかこの光が、来佳を悲しいことから守ってくれますように。心から祈りつつ、私は来佳に答えた。
「ありがとう、来佳。私、やっぱりちょっと、しんどかったよ。噂されるのも無視されるのも嫌だった。それならもう誰にも見られたくないって思うくらい。どうしたら解決できるかわからないけど、今はこの気持ちをごまかさないで、ちゃんと見つめるよ」
「うん。もし小夜ちゃんが自分を励ませなかったら、私を呼んでね。小夜ちゃんのかわりに一生懸命励ますから。こうやってー」
と言いながら来佳は、両手で頬を押さえて唇を尖らせる、というおかしな顔を私に向けた。私はこみ上げる笑い声を必死に抑える。
「ちょっと、変顔やめてよ。今、授業中だってば」
「ごめんごめん。あとでやるね」
「あとにもやらなくていいから。変顔しなくても、来佳は普通にしてるだけで十分おかしいよ。この間の消しゴムがカップにホールインワン事件とか」
「あれはもう忘れてよー」
「忘れない。本当に、大真面目に。来佳はね、そのまんまで私の心を軽くしてくれてるよ。もうとっくに励まされてる」
思い切って、普段なら言えそうもない本音を伝えた。降り注ぐ光が、私と来佳の境界線を淡く溶かしてくれていた。
来佳が目を見張る。続いてなにか言おうとしたとき、チャイムが鳴った。体育の時間は終了だ。
「あはは、すっかり話し込んじゃったね」
「本当」
照れ笑いをしていた来佳は、すぐに表情を引き締めた。
立ち上がろうとするがうまくいかないのだ。力が入りすぎているのか杖を持つ手が震えている。何度か腰を浮かせては、すぐにマットに座り込んでしまう。
そう言えば、柔らかいところから立ち上がるのは苦手だと、以前来佳が話していた。「一度、ソファから立とうとして前に転んじゃったことがあって、体が怖がってるのかも」と苦笑いをしていた。
「手を貸そうか?」
声をかけると、来佳は遠慮がちに首を振った。
「ううん、あの、できたらでいいんだけど、自分で立ってみたくて……」
「わかった」
私は来佳の前に立ち、もし転びそうになったら支えられるように身構えた。
自力で立とうと来佳が挑戦しているうちに、生徒たちはいなくなり、体育館にいるのは私たちふたりだけになった。耳が痛いほど静かな空間だ。
その様子を見て来佳は焦ったのか、杖を取り落としてしまった。私はすぐに拾って来佳に手渡す。
「ごめんね、小夜ちゃん。次の授業始まっちゃうといけないよね。もう……」
「いいよ、気にしない。来佳がやりたいことなら、ちゃんと待つから。大丈夫だから」
今、来佳がしていることは、彼女が「悩み」を少なくするために必要なことなのだと思った。
それなら私は、全力で来佳に付き添いたい。
私は来佳の目を見て力強くうなずいた。来佳もうなずき返す。杖を握る来佳の手に力がこもる。次の瞬間、
「よい、しょっ」
勢いの良いかけ声とともに、来佳は立ち上がった。
「立てた……!」
「やったね、来佳」
手を取り合って喜びを分かち合う。
「小夜ちゃん、ありがとう。ありがとう……」
来佳は何度もお礼を繰り返す。私は「大げさ」と言いかけたけれど、ハッとして口をつぐんだ。
来佳の顔、睫毛に涙の粒が乗っている。彼女がまばたきをすると涙は頬に転げ落ちた。
「来佳、大丈夫?」
「うん、大丈夫。ごめんね。嬉しくて……。今までできなかったことが、ひとつできるようになったから、前に進めた気がして……」
「謝ることないよ。本当に良かったね、来佳」
「小夜ちゃんがいてくれたおかげだよ。やさしく見守っててくれたから、立てたよ。今ね、どこまでも歩けそうな気分!」
私こそ、そんな風に言ってもらえて、嬉しい。
来佳が「どこまでも歩ける」と言ってくれるなら、私はどこまでも来佳の隣にいたい。一緒に歩きたい。そう思った。
「来佳、休みの日は散歩してるって言ってたよね」
「うん、リハビリがてらにね、家の周り歩くくらいだけど」
「今度私も付き合っていいかな」
「もちろんいいよ! 小夜ちゃんが私を見てるのが大変じゃなければだけど……」
「全然。じゃあ、約束ね」
「うん、約束!」
私たちは約束の日のスケジュールを話しながら歩く。次の授業が始まりそうだけれど、もう少し待って欲しい。
日に当たりたくなかった過去が嘘のように、約束の日が楽しみだ。
家に帰ったら準備をしよう。日差しで肌が傷まないように、日焼け止めと帽子を。
それから、来佳の急なドジや変顔に負けないように、平常心を。
だけど後者は、次々と繰り出される来佳の技に太刀打ちできずに、私はきっとお腹を抱えて笑ってしまうのだろう。