【3・吟遊詩人】千年前のアーシェク 2
本来大統領府には顔見せに来たはずだが、兄のように振る舞える自信がなかった。どうせあんな風に出来ないのなら、気疲れするだけソンだから、おとなしくしていよう、そう思っていた。そのとき、ふと壁にかかった九弦の弦楽器が目に入った。
それは、中央アジアの楽器、サズだった。
細く長いネックを持ち、胴は半分に割ったいちじくのような形をしている。古くより、西アジアから中央アジアの人々の間で広く使われていた楽器で、吟遊詩人によって広められたと言われている。
この宴会場にあるサズは全体に美しい装飾が施してあり、まるで美術品のようだった。彼が近寄ってよく見ると、この壁にほとんど置物として飾られていたのだろう、長い間誰にも奏でられることなく、若干埃をかぶっている。
(ああ……これは…………)
彼は懐かしさのあまり、壁に掛けられたままのサズに、つい手を伸ばしてしまった。
――そっと、花にでも触れるかの如く。
その時彼は、永く恋い焦がれた愛人にでも会ったかのような、愛しさと懐かしさの混じった顔をしていた。それを一人の老人がじっと見ていた。
「ご興味がおありかな? 日本のお若いの」
大臣の一人が彼に声をかけてきた。がっちりとした体躯に豪奢な民族衣装を纏い、日に焼け深い皺を刻んだ顔に髭をたくわえた老人だった。
突然声をかけられた神崎は、バツが悪そうに慌てて伸ばした手を引っ込めた。
「え? ああ、……済みません。勝手に触ったりして……」
「日本の方でもこんな物に興味を持たれるのですな」
老人は、壁からサズを外した。
「ええ……まぁ」
「良かったら弾いてみますか? ……と、これは」
サズの胴に積もった埃に気づいた大臣は、ハンカチを取り出してそれを払い落とし神崎に笑顔で差し出した。
「さ、遠慮なく」
「……いいの、ですか?」
神崎は、胸の中を見透かされた気もしたが、微かによぎる不安は、それを奏でられるという喜びの前にかき消えていった。
「では……」
グラスを近くのテーブルの上に置き、震える手で老大臣からサズを受け取った彼は、懐かしさからそれをを抱き締めてしまった。
(ああ……、もうどれほど触っていなかったろう……千年?)
老人は、目を細めながら彼を見守っていた。
すぐに気を取り直した彼は弦に挟まったピックを抜き、バラン……と弦を軽く弾いた。
弦の音に、近くにいた数人の客が振り返った。
神崎はそれには見向きもせず、左手で若干チューニングを合わせ、不安を払うように、息を深く吸い込んだ。
神崎の脇の下には今、空のホルスターがぶら下がっている。宴会場に入る前、受付に銃を預けていたのだ。演奏中動きづらいので上着を脱ぎたかったのだが、このような場所で無粋な物を見せることもなかろうと、彼は上着を着たままサズを弾くことにした。
宴の中心には、いつの間にか老大臣が異国の青年のために椅子を据えていた。宴の客も何かの余興か、と椅子の周囲に集まってきた。
神崎は老大臣の手招きで椅子の前に立ち、周囲に一礼をして優雅に座った。
足を組み、サズの胴を太股の上に載せる。
かつて何千回も何万回もやった段取りを、流れるように。