【3・麗のお願い】そして俺は君を救いに来た 2
「やっぱ言わないとダメ?」
冗談めかして麗が言った。
無邪気な麗相手に、神崎も子供っぽく返す。
「ダーメ」
「そっか。あのね」
「うん」
「――処女のまま死にたくない」
彼女の声のトーンから、明るい色が消えていた。
「え……それって……」
余命宣告はされていないはずだったが、やはり彼女は己の死期を悟っていたのだ。
「知ってるよ? 私、もうじき死んじゃうんだって」
そう、明るく答えた。
下の句に、『だからなに?』とでも続きそうな言い方だった。
「そ、そんなことない。きっとよくなる」
――そうだ。そのために自分は帰ってきたんだ。
あの病院に入院している限りは、死ぬまでの時間をほんの少し遅らせるだけだが、うちの系列病院に入れて、万策を尽くせば、必ず助かる。
いや、助けてみせる。だから――。
「有人さんだって、お母さんから聞かされてるんでしょ? 昨日、廊下からお母さんが泣いてるの見たもん」
「それは…………ああ、そうだよ。余命のことは知ってる……」
「じゃあ、いいでしょ? お願いきいてくれるんじゃなかったの?」
「でも……」
そもそも、冥土の土産に抱いてくれなんて縁起でもない。
さらにいえば、心臓を患う彼女と性行為をすること自体、心配なのだ。
「私には時間がないの」
「麗!」
「どうせ短いなら、出来るだけしたいこと、何でもしたい」
「――ッ」
麗は、シフトレバーに軽く置いた神崎の左腕にしがみついてきた。今朝、病院の洗髪台で髪を洗ってやったときの、シャンプーの香りが漂ってくる。
「でも……なあ……」
神崎はぽつりと呟くと、車を始動させた。
気まずい空気が二人の会話を押し殺す。そのまま小一時間ほど都内を走らせていた神崎だった。
☆ ☆ ☆
国道246号線の青山付近を走行中、彼女が「喉が渇いた」というので車を駐め、オープンカフェで休憩することにした。
神崎一人なら絶対に入らないような小洒落た店だ。外は暑いので、店内に入りたかったのだが、彼女がオープンカフェを体験したい、と駄々をこねるので、仕方なくテラスに席を取る。
「ねぇ、有人さん。もうじき向こうに戻っちゃうんだよね」
グラスの氷をカラカラ鳴らしながら、つまらなそうに麗が言った。
店名をプリントした四角いコルクのコースターには、結露した水滴が作った水溜まりが出来上がっていた。
「仕事ほっぽり出して帰ってきちゃったからね。帰ったら仕事山積みかも」
う~ん、とおおげさに頭を抱えて、おどけてみせた。うかつに麗の気持ちを落とすことは、彼女の生きる気力を削ぎかねない。
こんなメンヘラ男が誰かの精神衛生について神経を遣うのは、皮肉にも程があると神崎は思った。
「いっちゃやだ……」
麗の前の、濃緑色のテーブルクロスの上に、数カ所新しい染みが出来る。
グラスから落ちた水滴とは、別の滴が作った染みが。
神崎は、膝の上でハンカチを握りしめる麗の手に、そっと己の手を重ねた。