【1・絵本】何度でも巡り会うもの 3
本屋を出た神崎は、搭乗手続きのために移動した。
広い空港ロビーの中にずらりと並んだ航空会社のカウンターは、早朝だというのにフル稼働している。いまは盆暮れでも連休中でもないので、思いの外混み合ってはいないようだ。
神崎が目的のチェックインカウンターに到着すると、すでに幾本かの行列が出来ていた。
毎度のことながら、神崎は日本に帰ってきてこういう光景を見ると、『やっぱり日本人は行列が上手だなぁ』と感じてしまう。
(これなら、余り待たされることもないだろうな……)
神崎はパスポートと航空券をスーツケースから取り出して、おとなしく順番待ちの列の最後尾に並んだ。すると、航空会社の職員から場内アナウンスが。
『現在関東周辺の気流が悪く、天候回復を待っているため到着が遅れております』
こうしてすぐに説明をしてくれる几帳面なところも『やっぱり日本的だな』と神崎は思いつつ、自分も日本の商社マンとしてこれから『日本的なサービス』を提供する立場なのだから、見習わなければいけないのかな、と漠然と感じていた。
「ま、今回はそれほど急く旅でもなし、気楽に行くさ」
そう、独りごちながら、手続きを終えた神崎は、出国ロビーのベンチでのんびりくつろいでいた。
カード会社の顧客用ラウンジを利用してもいいのだが、居心地が良すぎて眠くなってしまうので、余程のことがなければ利用しない主義だった。
ベンチに腰掛た彼の周囲には、搭乗前の腹ごしらえにと、売店で買ったおにぎりをむさぼるサラリーマンもいた。
それを見た神崎は、先日海外で食べた、長粒種のインディカ米をムリヤリ圧縮して作られた、残念この上ないおにぎりを思い出し、一人苦笑した。
彼の荷物は、アルミのスーツケースが一つきり。
中身は愛用しているノートPCと書類、ゲーム用コントローラー、それと当座の身の回りの品が少々。
長期の海外滞在にしてはあまりにも身軽な旅支度だったが、仕事で必要なものは、それがたとえ礼服一式だったとしても全て現地で買い揃え、現地で処分するのが彼の常だった。
飛行機が到着するまでの間ヒマを持て余した神崎は、先ほど苦労して購入した絵本を鞄から取り出した。
(……この絵本を買うのは、もう何度目だろうか)
日頃から物欲があまりなく、家も物も『所有』することのない男だったが、それでもあの絵本だけは、可能な限り手放さなかった。
仕事先で無くす度に何度も何度も買い直しては読み返す、神崎にとっての「心の一冊」だった。
「幾度死んでも生まれ変わり続ける猫」を題材にし、もう三桁にも及ぶ重版を繰り返している。古くから日本で親しまれてきた絵本だ。
彼は、白地に大きくトラ猫の描かれた絵本を膝の上に載せ、ゆっくりとページをめくっていった。
そこには幾度となく繰り返す、主人公「猫」の生き死にと、「猫」に関わった人々との物語が綴られていた。
◆
「猫」は身勝手な恩知らずで、自分を可愛がってくれた飼い主たちを何とも思わず、そして自分自身の命も何とも思っていなかった。
そして幾万回目かの転生の後、
「猫」は誰にも飼われることを選ばず、野良猫として過ごした――。
◆
神崎は絵本を見る度、いつも思う。
自分は永久の時間を「猫」ほど身勝手に生きてきたつもりはないけれど、事情があって捨ててきた人たちがたくさんいた。
彼等から見れば、やっぱり自分は「猫」と同じように、身勝手で恩知らずだったのかもしれない。
だけど、もらった愛情は、いつまでも忘れずにいるつもりだった。
――何百年でも、何千年でも。
ふと、ページの上に一粒の涙が落ちる。
主人公の「猫」が、ヒロインの「白猫」の気を惹くために曲芸を見せるシーンだった。
神崎は慌ててハンカチを取り出して、紙に染み込む前に零れた涙を拭き取った。
それは「猫」が初めて『誰かと共にいたい』、とはっきり望んだ場面だった。
神崎は、どうしてもそのページで必ず泣いてしまう。
何百回と読んだ絵本だったが、それでもこのシーンでは必ず涙が溢れ、そこから先が読めなくなってしまう。
きっとそのままラストまで読み続ければ、号泣してしまうのが分かっているから。
別に泣きたくて読むわけじゃない。
悲しさを噛みしめるために、幾度となく買い直しているわけじゃない。
でも初めて見つけたときから、彼にとってどうしても手放せない、そんな絵本だった。
◆
「猫」は「白猫」と満足のいく人生を送り、そして「白猫」の死を見送ったあと、
自分もやっと「死ぬ」ことが出来た。二度と蘇らない死を迎えたのだった。
◆
――――――でも俺は……。
『――俺の白猫は、いつ帰ってくるんだろう?』
そんな自分は、百万年経っても死ねない猫、
永久の時間を、彷徨う野良猫。