88 実食
差し出されたローストボアの皿を前に、重蔵氏が渋い顔をした。
「あー……たしかにローストなら今のワシでも食えそうだし、お気遣いは痛み入るって話だけどな。だがこの際正直に言っちまうと、ワシはローストはあんまり……」
どうやら重蔵氏はローストはあまりお好きではないご様子。しかし大家さんは気にする素振りもなく、皿をぐいっと重蔵氏に押し付ける。
「いいから、ほれ食ってみな。それともあたしがあーんしてやらないと食えないのかい?」
からかうように大家さんが言うと、重蔵氏が心底嫌そうに顔をしかめた。
「やめてくれ。義姉さんにそんなことさせたら、あの世で兄さんにぶっ殺されちまう。あぁもう、わかったわかった、食うからよ!」
しぶしぶながらローストボアを箸でつまみ、あんぐりと口を開ける重蔵氏。だがつまらなそうに細めていた目は――
「…………!?」
ローストボアを口に入れた瞬間に、クワッと見開かれることになった。
重蔵氏は目を見開いたまま、ゆっくりと咀嚼してゴクリと飲み込むと、無言で皿の上のローストボアを箸でつまみ、その表と裏をじろじろと観察する。
「む…………」
しかし何もわからなかったのだろう、首をかしげた重蔵氏はそのまま再びローストボアを口の中に入れた。
今度は味わうようにじっと目をつぶって食べる重蔵氏。しばらくして彼はそれを飲み込むと、ほうと息を漏らしながら次のローストボアに箸をつける。
その後も無言でひたすら手と口を動かし、重蔵氏はあっと言う間に皿にあったすべてのローストボアを平らげたのだった。
本人曰く死にかけの老人のワリには、非常に健啖だと言わざるを得ない。大家さんからは余命はあと半年ほどだと聞いてはいるのだけれど。
「……で、どうだったい?」
ニヤニヤと口元を緩めながらの大家さんの問いかけに、箸を皿に置いた重蔵氏がおもむろに両手を上げた。
「降参だ。こんな美味いローストは食ったことねえ。……いや、料理法は関係ないな。素材が別格すぎる。コイツはいったいどこのブランドの肉なんだ?」
「フン、あたしが料理したってのに失礼なヤツだね――と言いたいところだけど、あんたの言うとおりだから許してやるよ。松永君、どこの肉なのか詳しく説明してあげな」
得意げに腕を組みながら俺に顔を向ける大家さん。伊勢崎さんの事情を知っているようだし、重蔵氏には異世界のことを言っても問題ないだろう。
「今のはブランド肉ではなく、グレートボアの肉です」
「はあ、グレートボア? 猪ってことはイノシシか。だがジビエにしちゃあ味が繊細だし臭みもねえな。産地はどこなんだ?」
「いえ、そういうことではなくて、グレートボアという名前の異世界の魔物なんです。向こうでは富裕層の間で好んで食べられてまして――」
「いやいや、待った待った」
俺の言葉を遮り、重蔵氏がガシガシと頭をかいた。
「異世界? 異世界の魔物だと?」
「はい、そうですけど……」
「ええと……松永君と言ったか。産地が言えないなら別に異世界だなんてごまかさなくても、秘密ということで構わんぞ。ワシとて守秘義務が課せられている食材が、この世にはごまんとあることくらいは知っておる。それを君から無理に聞き出そうなんてことはしない。だから安心してくれや……ま、残念ではあるがな」
どっかりと背中をベッドに預け、諦め顔で顎をさする重蔵氏。うーん? 重蔵氏はなにか勘違いしてそうだ。
「いえ、ごまかしているわけではなくて、本当に異世界の魔物なんですよ。まあお世話になった商会で貰った物ですので、産地とかどこで狩られた物なのかまでは私も知らないんですけど」
だが重蔵氏は眉間にシワを寄せると、面倒くさそうにひらひらと手を振った。
「そういうのはいい。それ以上しつこいと笑えなくなる」
ぷいっと窓の方を向き、あからさまに不機嫌になった重蔵氏。
……え? あれあれあれ? 重蔵氏は伊勢崎さんの事情を知っているんじゃなかったっけ? これは一体どういうことなんだろう。
俺はすがるように大家さんに視線を向けた。ひょいと肩をすくめる大家さん。
「松永君、実はね、コイツはずうっとこうなんだよ。聖奈が異世界に行ったことを未だに信じちゃいないんだ。なにかのショックで記憶が混乱していると思い込んでるんだよ。笑えるだろう? ザッツソーファニー、オウイェ」
しかしそんな大家さんの手厳しい言葉を受けても、重蔵氏は気遣うような目で俺の隣にいる伊勢崎さんを見つめた。
「聖奈ちゃんは髪の色が変わっちまうほど強いショックを受けたんだ。心の防衛本能ってヤツが別の記憶を作り出したって仕方ねえだろうし、それに義姉さんが寄り添うのは構わねえとは思うよ。……しかし、しかしだな。義姉さんだけならともかく――」
そこで重蔵氏は俺に顔を向けると、これまでとは違うドスの効いた低い声を発した。
「お前さんは一体どういうつもりだ? ……まさか異世界を信じる振りをして、義姉さんと聖奈ちゃんに取り入ろうって算段じゃねえだろうな?」
死にかけの老人とは思えない、鋭い光を宿した目で俺をにらむ重蔵氏。
「そのためにワシが食ったこともないような美味い肉をどこからか仕入れてきたのだとしたら、ずいぶんと手が込んだことをしやがるじゃねえか。……だがな、この二人はワシが兄さんからくれぐれも頼むと任された大事な親族だ。お前さんがそのつもりならワシにも考えがある。言動にはくれぐれも気をつけることだな」
含みを持たせた言い方で、ゆっくりと噛みしめるように俺に話しかける重蔵氏。
さすがは城之内家の重鎮。声を荒らげているわけではないのに、なんとも言えない凄みと迫力があるよ。やましい心当たりがある者ならば、重蔵氏の言葉にきっと心底震え上がることだろう。
それに落ち着いて考えてみると、少し極端すぎるけれど重蔵氏の言い分もわからないではないんだよね。むしろ異世界があるってすんなり信じた大家さんの方が、ちょっと普通じゃない気がする。
とはいえ、さすがに重蔵氏から詐欺師のように誤解されたままでは困る。さて、どうしようかな? と思ったところで――
――俺を射抜くような重蔵氏の視線を遮るように、目の前にゆらりと人影が現れた。
それはここまで一言も話さずに黙っていた、伊勢崎さんの姿であった。




