86 ローストボア
大家さんはお盆を持ってすぐに戻ってきた。
お盆の中には薄いまな板が置かれ、そこには表面がほんのりと茶色に色づいたグレートボアの肉塊が乗せられている。
「グレートボアのローストビーフ……じゃなくてローストボアになるのかね。どうだい、松永君も食べるだろう?」
「あ、いただきます」
俺は『焼く』か『鍋の具材』にするくらいしか調理法を考えてなかったけれど、ローストボアとはさすがは大家さんだ。ここはご相伴にあずかろう。
まな板をテーブルの上に置いた大家さんは、さっそくナイフをローストボアを差し込んだ。
「……へえ、少しは硬くなると思っていたんだけど、まるで生肉のままのような柔らかさだ。肉が柔らかいのは美味いローストの必須条件だからね、こいつは期待できそうだよ」
片眉をピクリと上げて、嬉しそうにつぶやく大家さん。
そうして大家さんはサクサクとローストボアを切り分け、俺の前に差し出してくれた。
「いちおう味付けに岩塩も持ってきたよ。こいつで食べてみてくれるかい」
いつものように、まずはお客さんからということらしい。それではご厚意に甘えてお先にいただくとしよう。
俺は薄く切られたローストボアの表面に岩塩を軽く振りかけると、箸でつまんで口の中に入れた。その瞬間――
「ふおおおおお……肉が溶ける、とろける……」
噛まずとも口の温度でとろりと崩れていくローストボア。
焼いて食べたときも美味しかったけれど、それとはまた違う食感。溶けた肉汁の旨味がまるで蒸気のように口の中いっぱいに広がっていき、すごく幸せな気分になってくる。
居酒屋やスーパーでローストビーフを食べたことくらいはあるけれど、そういったものとは段違いだね。さすが異世界の食材だ。
しかし、こちらの世界でたくさんの高級料理を食べてきた大家さんはどうなのだろう。土ネズミレベルの食べ物はこの世界にもあったらしいのだが――
俺は今まさにローストボアをこくりと飲み込んだ大家さんの様子をちらりと窺った。
「へえ……こいつはあたしも食べたことのないような代物だよ。大したもんだ」
目を細め、感心したように口元を緩める大家さん。
どうやらお金持ちの大家さんでも、食べたことのないレベルの食材らしい。別に勝負していたわけじゃないけれど、なんだか大家さんに勝ったような気がして少し気分がいいね。
それから俺と大家さんは無言で二口、三口とローストボアを食べていき――大家さんは一度箸を置くと、考え込むように顎に手を添えた。
「あの……? どうしました?」
俺の声に大家さんが顔を上げる。
「松永君、ひとつお願いがあるんだけどね」
「あ、はい。俺にできることでしたらなんでも言ってください」
「あたしが頂いた物だというのに、不義理にも程があると思うんだが……少しだけ、この肉をよそにお裾分けしてやってもいいかい? 実は食い道楽の義理の弟がいるんだけど、そろそろお迎えが近そうでね。これほどの美味い肉なら、あの義弟の冥土の土産には十分すぎるだろうからさ」
「ああ、なんだそんなことですか。もちろんいいですよ」
「感謝するよ、松永君。この借りは必ず返すからね」
「いえいえ、気にしないでください」
今までさんざんお世話になっているのだ。これで俺の借りが少しでも返せればそれでいい。
そんなことを思いながら、再びローストボアを口に運んでいると、大家さんがお茶を一口飲むなり俺に言った。
「さて、聖奈もそろそろ帰ってくるだろうし、そいつを食べ終わったら松永君も準備しなよ。あんたも義弟のお見舞いに連れていくからさ」
「えっ、俺もその義理の弟さんのお見舞いに行くんですか?」
「ああ。まあ悪いようにはさせないよ。美味い物を食わせてやったのはこの松永君なんだと、アイツに恩を着せてやるだけさね。義弟は手広く商売をやっていたし、もしかしたらあんたの金策の手助けになるかもしれないよ」
ニヤリと笑って答える大家さん。ううむ、日本での金策については俺の抱える最大の問題なんだよな……。
お偉方に会うのは気が進まないけれど、そういうことなら、ついていった方がよさそうだ。同じくVIPらしい相原のお爺さんに会う予行練習にもなるだろうし。
「わかりました。お供します」
「よし、それじゃあとりあえず肉を食っちまおうか」
そうして俺と大家さんはローストボアを平らげたのだった。その後、俺がいったん自宅に戻りスーツに着替え、伊勢崎邸にとんぼ返りすると――
「お婆様、ただいま戻りました」
伊勢崎さんが学園から帰ってきた。学園が終わるには早い時間帯なのだが、もともと今日は学園は早退して義弟さんのお見舞いについて行く予定だったらしい。
「おじさま! どうかされたんですか? あっ、あっ、もしかして私に会いに来てくださったとか……?」
客間にいた俺を見て、伊勢崎さんがもじもじと体を揺らしながら尋ねる。
「いやあそれがさ、いろいろとあって俺もお見舞いに付き合うことになったんだよ」
「あら、そうなのですか……。――えっ? どうしておじさまが重蔵お爺様のお見舞いに?」
目を丸くした伊勢崎さんに大家さんが答える。
「松永君から貰った手土産を重蔵に食わせてやるのさ。そしたら松永君を紹介しないわけにはいかないだろう? わかったらお前も早く準備をするんだね」
「よくわからないですけど、おじさまも一緒に行ってくださることはわかりました! それでは準備いたします!」
びゅーんと客間から去っていく伊勢崎さんと、それをやれやれと肩をすくめながら見送る大家さん。
ちなみに大家さんはいつものロックなファッションとは違い、久々の和服姿に着替えている。なんだか昔に戻ったみたいだよ、口調は今と変わんないけどね。
「それじゃ今のうちに車を呼んでくるからね」
そう言い残し、大家さんが客間から出ていった。こうして俺はなぜか伊勢崎さんの親戚のお見舞いに同行することになったのである。




