19 帰還
急上昇中のエレベーターに乗っているような浮遊感を一瞬感じた後、俺はアスファルトが舗装された道路に立っていた。
時刻は転移したときと同じく夜らしく、街灯の明かりだけが地面を照らしていたのだが――
「うわあ……」
思わずつぶやく。道路にはまるで殺人現場のように大量の血がべったりと残っていたからだ。これって俺の血……だよなあ……。
あの事件から丸一日ほど経っているはずなんだけれど、誰かが掃除した形跡も、事件として捜査された形跡もない。
これではまるで、俺たちが異世界に飛んだ直後の光景のよう――
「スーハー! スーハースーハー! ハスハスハス! クンカクンカ! スーハースースー!」
「あっ、伊勢崎さん」
血まみれの道路に意識を奪われていた俺だが、耳に届いた過呼吸らしい呼吸音で、俺の胸に寄りかかっていた伊勢崎さんのことを思い出した。
「スーハースーハー! ハスハス! スーハースースースースースーーッ!!」
「えっ、あ、ちょっ、大丈夫!? 伊勢崎さん、気をしっかり持つんだ! さあ、落ち着いて、どうどうどう……」
俺は過呼吸を繰り返す伊勢崎さんを引き離しながら、なるべくゆっくりやさしく声をかける。
すると俺の声に反応して、伊勢崎さんは顔を上げた。
その顔は極度の混乱によるものだろう、汗だくで頬を真っ赤に紅潮させ、口元からはヨダ――光る物まで垂れていた。これは酷い。これがトラウマによるフラッシュバックか……。
「――ハッ! ……す、すみません。少々取り乱しました。私は平気ですわ!」
「本当かい? 少しでも調子がおかしいって感じたらすぐに病院に行くんだよ?」
「は、はい。肝に銘じておきますわ。……ところでおじさま、この光景なのですが――」
どうやら伊勢崎さんは本当に落ち着きを取り戻したようで、軽く髪の毛をかきあげると、ゆっくりと辺りの様子を見回した。
「うん、まるで俺たちが転移した直後のようだね。これってどういうことだと思う?」
「こちらと異世界で、時間の流れが違うということではないかと思われますが……。こればかりは今後も検証を重ねていくことでしか詳細は明らかにならないでしょう。なぜなら世界間の『次元転移』だなんて、おじさま以外誰もなし得ていないのですから」
「そうなのかな? だとすると今後は時間の流れについても調べてみたいとは思うけど、まずは――」
俺は道路にべったりとついている血を眺めながら、
「誰かが来る前に、この血を『清浄』で綺麗サッパリに掃除をしようか」
そう伊勢崎さんに提案した。だが伊勢崎さんはピクリと眉を動かすと、不服そうに低い声を漏らす。
「おじさま、それはどうしてでしょうか? この血はあの……あの……誰でしたっけ……。とにかく、ホッケー部のキャプテンの犯行現場として絶対的な証拠になりますわ。おじさまの傷は癒えてはいますが、後でほんの少しだけおじさまのお体に傷をつけて、刺された時はたくさん血がでたけど奇跡的に軽傷で済んだということにでもしましょう。大丈夫、痛みが消える光魔法もございますから。とにかく刺した事実と血という物証があれば、後はお婆様にお願いして腕利きの弁護士をつければなんとでもなりますわ。そして必ずや、あのホッケー部に自分の犯した罪の大きさを自覚させ、人生をかけて償わせるのです。許さない。許さない。絶対に許さない、絶対に、絶対にDEATH」
光を無くした瞳でつらつらと話し続ける伊勢崎さん。ちょっと怖い。それからね、あの少年はサッカー部だったと思うよ。○ッ○ーしか合ってない。
「いや、いいんだ。だってそんな大事にしたらさ、伊勢崎さんだって周囲から注目を浴びてしまうだろう? いくら被害者側だったとしても、おもしろおかしく騒ぎ立てる人がいないとは限らないし」
特に学生は常に話題に飢えている。根も葉もない噂であろうと、それをせき止めるのは容易なことではないだろう。
そんな俺の言葉に、伊勢崎さんの瞳に光が戻った。
「まあ……! つまりおじさまは私の……私のために、あのホッケー部のクズをお許しになる。そうおっしゃるのですか!?」
そう言って伊勢崎さんは目を潤ませながら、俺の手をがっしりと握った。
「え? うん、まあ、だいたいはそうだね?」
もちろんそれが一番の理由であることに違いはないが、それだけというわけでもないので言葉を濁す。
大事になると、俺だって面倒を被ることになるだろう。今はそんなことに時間を浪費するよりも、他にやりたいことがたくさんあった。
もちろん今後同じことが起きないように配慮する必要もあるが、それについては俺や伊勢崎さんよりも上手くやれる人物を俺は知っている。まずは相談だ――
「おじさまっ、道路を綺麗にしました! 見てくださいませ!」
俺が考えにふけっている間に、伊勢崎さんは道路に『清浄』をかけたようだ。
ざっと見たところ、ここで流血沙汰の事件があったとはとても思えない。どこにでもある平凡な道路へと戻っている。
「これなら問題ないだろうね。それじゃあ家まで送るよ。すぐそこだけど」
「はいっ!」
◇◇◇
俺の住んでいる庶民マンションのすぐ近く。どう見たって場違いな和風の大邸宅がそこに存在していた。
普段なら入り口の門のところでお別れするのだが、今回は伊勢崎さんと一緒に門をくぐる。伊勢崎さんが襲われそうになった一件をあの人に説明しないわけにはいかない。
「お婆様、ただいま戻りました」
玄関の戸を開けて伊勢崎さんが声を上げると、すぐ近くの障子が開き、
「おかえり聖奈。……と、おや? 松永君じゃあないか、珍しいね。いいじゃん、とにかく上がりな?」
そう言って親指をクイッと後ろに向けたのは、黒地にド派手なプリントが施されたロックなTシャツを着こなした金髪の老婦人。
伊勢崎さんのお婆さん――俺にとっては大家さんにあたる女性が姿を見せたのだった。




