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完全犯罪証明ゲーム

 この部屋、推理研究会の部室は密室だった。


 その密室内で、ケーキを食べ終えコーヒーに口をつけたとき、私はその事件に気付いた。

 推理研究会。

 名前の通り『推理』を『研究』する部活。部員が足りないので正式なクラブではなく同好会だ。

 一時期は推理研究『部』と呼ばれる程には部員がいたそうだけれど、現在の部員は部長である私ともうひとりだけだった。

 そのもうひとりは委員会の会合で一時間程度遅れるという。

 つまり、この部室にいるのはいま現在私だけだ。

 そんな状況で事件が起きた。

 

 何を隠そう――犯人は私。


 私は罪を犯した。

 といっても、法律に触れることをしたわけじゃない。

 この推理研究会には幾つかの会則が存在している。

 その多くは推理研究会に相応しい会則であるのだけれど、ひとつ群を抜いて珍妙な会則がある。



 それは――お菓子をひとり占めしないこと。



 この密室で私が犯した罪。

 そう、私は食べてしまったのだ。もうひとり分のケーキを。

 その程度のことか、と思われるかもしれない。けれど、こんな言葉もある。


 郷に入っては郷に従え。


 些細なことであってもルールが存在するならば、そのルールを犯すことは犯罪である。

 駅前のパティスリーの一日百個限定特製ショートケーキが奇跡的にふたつ手に入ったからつい魔が差して……なんて言い訳は通らない。

 だから、何としてでもこの犯罪は隠蔽しなければならなかった。

 幸いなことに私の犯行を目撃した人物はいない。

 そして、この部屋は密室。ある種のクローズド・サークルだ。

 クローズド・サークルは閉じられているが故に、外部の人間から証拠を隠しやすいではないか。

 さっきまで読んでいた『そして誰もいなくなった』で感じたことを試す良い機会かもしれない。



 私は、この犯罪を完全犯罪に変えることを決めた。



 この犯罪を隠蔽するために、私は部屋の内部を見渡した。それだけでも証拠になり得るものがいくつも見つかる。


 まず、最もまずいのは長机である。

 上に乗っているのは、先程私が食べたケーキの入っていた箱やケーキの包み紙。

 これらは言わずとも決定的な証拠だ。


 でも、それだけじゃない。

 マグカップに入った飲みかけのブラックコーヒー。

 これもダメ。

 甘党の私がブラックを飲むのはケーキとセットのときだということをもうひとりの部員は知っている。

 私がいつもコーヒーだけを飲むときはミルクと角砂糖三つ。

 だけど、いくら甘党の私でも二つもケーキを食べた後に甘いコーヒーを飲みたいとは思わない。


 仕方がないわ。

 私は冷蔵庫にあった市販の小分けにされたミルクをひとつ、飲みかけのコーヒーへと入れる。

 これで見た目ではわからないはず。


 次は、テーブルの上に散らかったゴミをどうするか。

 ゴミ箱へ、というのが一番簡単なのだけど、それだけでは少し調べられただけで簡単に露見する。

 完全犯罪には程遠い。

 つまり、少なくともこの部屋から排除してしまう必要がある。


 もうひとりの部員がここにやって来るまで、多く見積もって二十分といったところ。

 誤差があったとしても誤魔化せる限界、それが二十分。

 幸い、ゴミ置き場にゴミを持っていくには充分な時間だ。


 私はゴミ箱にセットされたゴミ袋を新しい袋に交換する。

 ゴミ箱から外した、ゴミのたまった袋にテーブルの上に乗ったゴミたちを詰め、袋の口を縛った。

 そして、私はその袋をゴミ置き場へと持って行った。

 ゴミを出して部室に戻って来ると、彼はまだ来ていなかった。

 それでも十分もしない内に顔を出すだろう。

 まだ証拠は残っている。

 急がなければ。

 私は完全犯罪達成のために、着々と証拠隠滅をしていった。




          ●




 普段より一時間程遅れて、俺は推理研究会の部室へ向かっていた。


 委員会なんて柄でもないのだが、うちのクラスには俺以上に柄でもないやつが多過ぎる。

「学級委員になってください」と担任から推薦されることになるとは思いもしなかった。


 廊下を歩いていると、運動部の掛け声や吹奏楽部の演奏が意識せずとも聞こえてくる。

 ウォーミングアップが終わって本格的に練習が始まった頃合いだろう。

 部活動に打ち込むタイプではない自覚はあるが、退屈な委員会よりかは部活動に打ち込む彼らが羨ましい。


「――あ、わたぽん」


 背後から聞こえてきた馴染みのある声に俺は振り返る。

 振り返った先にはクラスメイトがいた。


 ――チャイナドレス姿で。


 酷いものを見てしまった……。頭を抱えてしまいたい気持ちをぐっとこらえる。


「いまから部活?」

 ああ、と俺は浅美あさみの問いに肯定した。


 何故、浅美がチャイナドレスを着ているのか。なんて気にしたら負けだ。

 魔界の住人の行動原理を一般人たる俺が理解できるはずあるまい。諦めが肝心だ。


「変わった格好するのは良いが、教師には捕まらないように頼むぞ」


 丈の短いチャイナドレスを着たきわどい姿の浅美に対して、俺は努めて平静に注意する。

 教師に捕まったとき大変なのは、学級委員の俺なのだから。


「大丈夫大丈夫。まだ、ちょっとゴミ捨てに行ったくらいだし」


 寝間着でゴミ捨てに行ったみたいなノリで言われても。

 ひと通りの少ないところとはいえ、十五分くらい出歩いているじゃないか。

 しかも、まだってこれから記録更新していく気満々である。

 このまま浅美と関わっていると、教師に見つかったとき面倒だ。


「程々にな。じゃ、俺は待たせてるから行くぞ」

「わかってるって。また明日ね」


 こいつは絶対わかってない。

 どうやら、また担任から相談を受けることになりそうだ。

 問題児ばかりで、担任に心労が多いのは察するが、生徒に相談するのはどうかと思う。

 明日のことは明日の俺に任せることにして、俺は浅美と別れた。



          ●



 推理研究会の部室の扉を開けると、風に乗ってかすかに消臭剤の匂いがした。

 何故。

 不思議に思いながら部室の中に入ると、パイプ椅子に腰掛けた女生徒が声をかけてきた。


「――あら、遅かったのね、ワトスン。今日は来てくれないのかと思ったわ」

「いつもの委員会だ。知っているくせにいちいち訊くな」


 彼女は推理研究会の部長、アリサ。

 学年はひとつ上。本名かどうかは知らない。

 名前の響きが似てるという理由で、俺のことを助手<ワトスン>と呼ぶくらいだ。だから俺もこれで良い。


 アリサは組んでいた脚をゆっくりと床に下ろす。

 脚をくるりと回すときにプリーツの裾がするりと肌を滑り彼女の白い太腿があらわになる。

 無防備な奴だ。俺が男だということがわかっていないのか。

 扇状に広がるプリーツから伸びる死体のように白い肌を注視するわけにもいかず目を逸らす。


 すると視界に入って来るのは長机の状況だった。

 長机の上はアリサの飲みかけのコーヒーの入ったマグカップと本が何冊か積んである。

 大方、暇つぶしに読書に勤しんでいたのだろう。

 俺の委員会が終わるまでに読み終えられる本の量でないように感じるが、同時に複数冊読めるアリサなら驚きはない。

 むしろ、一冊しか読んでいなかったら驚くくらいだ。

 アリサもコーヒーを飲んでいることだし、俺も自分用にコーヒーを淹れるか。

 来てすぐとはいえ、委員会があったんだ。ひと息つきたい。


「ワトスン。これ片付けてくれるかしら?」


 給湯スペースへ向かおうとすると、アリサが一冊の本を手渡して来る。


「それぐらい自分で片付けろよ」

「コーヒー淹れるついでに良いでしょ?」


 子どもが親にねだるようにアリサは首を傾げる。

 せめてもの抗議に俺はため息をひとつ吐いて、差し出された本を受け取る。

 しかし、一冊だけか。まさかとは思うが、一冊しか読んでないのか?

 受け取った本は、クリスティの名作中の名作『そして誰もいなくなった』だった。

 クローズド・サークルとして有名なものであるが、俺はこの作品をある種の完全犯罪ではないかと思っている。現実では確実にできないと思いもするが。

 俺は本棚に『そして誰もいなくなった』を収めた。

 相変わらずすごいミステリの蔵書量だ。

 歴代の部員が残していった推理研究会の遺産でもあるため、ジャンルは固定ながらも多彩である。

 この棚にある本すべてをアリサは読破済みらしい。

 俺も負けじと読破しなければ。


 決意を新たに給湯スペースへ移動した。

 給湯スペースといっても、部屋の一角にシンクとワンドアの冷蔵庫、電気ポットがあるくらいだが。

 自前のマグカップにインスタントコーヒーの粉末を入れ、電気ポットからお湯を注ぐ。

 これだけでコーヒーが飲めるのだからインスタントを発明した人間は偉大だ。

 冷蔵庫に保管してあるコーヒーフレッシュを入れ、ついでにシュガーポットから角砂糖をひとつ。

 ここまでの流れは基本的に変わらない。

 ルーチンワークみたいなものだ。

 ただ、俺もアリサもお茶請けが甘いものであればブラックになる。

 今日はなさそうだしこれで良いだろう。

 コーヒーフレッシュの容器を空っぽのゴミ箱へ捨てる。

 良し。

 ゴミ捨てに行く必要はないな。また浅美に会わないとも限らないし。

 引出しから取り出したティースプーンでコーヒーを混ぜ、角砂糖を溶かす。


「――そういや、さっき会ったバカがチャイナドレス着てたんだよ」

「それは、エグいわね……」

「本当にな。しかもそのバカ、クラスメイトなんだよ……。教師に見つかってないと良いが。無理だろうな」

「でしょうね。間違いなく目を引くもの」

「……なんで変態がいるクラスの学級委員引き受けちまったんだろ」

「ご愁傷様」


 アリサと浅美に面識がないのに愚痴を言っても仕方がない。

 共感してもらえるだけでも気持ちは少し楽になった。

 明日の憂鬱は忘れて、部活動を楽しもう。


 俺はマグカップを持ち、長机を挟んでアリサの対面の椅子に腰を下ろした。

 正面を向くとアリサの大きく切れ長な瞳と目が合った。


「それじゃ、今日の活動を始めましょうか」


 アリサはゆったりとした動作で脚を組む。


「今日のテーマは完全犯罪よ」


 楽しそうに目を細める。面白い玩具を見つけたような意地の悪い表情だった。

 完全犯罪、俺の好きな単語が出てきたことで心が躍る。


「そのテーマで何をする気だ」


 推理研究会の活動はその正式名称が示す通り、推理の研究だ。

 何かしらの問題に対する推理であったり、人の心情、物的証拠といった推理の取っ掛かりになるものに対する議論だったりする。

 そんな推理研究会にも会則が存在する。

 それは「自由な発想で推理を行うこと」、「人の推理は論理的な思考によって否定すること」、「お菓子をひとり占めしないこと」である。

 最後が何故存在するのかは不明だがおそらく昔食い意地の張った人がいたんだろう。


「完全犯罪の存在を証明したいの」

「無理だな」


 俺はアリサの妄言をバッサリと切って捨てる。

 俺の発言にアリサは背もたれに預けていた背を離して少し身を乗り出す。


「どうして?」

「犯罪という非日常が日常に介入するんだ。その結果を完全に日常に戻すことはできるはずがない」


 証拠隠滅のため、犯人が触れた箇所を布で拭き取ることはよくある話だ。

 けれど、拭き取ったことで犯人だけでなく、あるべき被害者の指紋まで消えてしまう。

 それが起点になり事件が発覚することもまたよくある話だ。証拠を隠滅したとしてもどこかしらに不自然さが残ってしまう。

 だから、俺は不可能と言わざるを得ない。


「ワトスン。つまりあなたは完全犯罪は存在しないというのね」


 頷く。


「だったら、ゲームをしましょう」


「ゲーム?」

 訊き返した俺に、そう、とアリサは微笑みを絶やさず続ける。



「名付けて、完全犯罪証明ゲーム」



「面白そうだな。……どんなゲームなんだ?」


「簡単よ。私は完全犯罪が存在することを証明する。あなたは完全犯罪が存在しないことを証明する。ただそれだけ」


「ディベート形式でやるのか?」


 普段の活動では同じ探偵という立場に立ち、お互いの推理を戦わせる。

 それを推理研究会ではディベート形式と呼んでいる。


「いいえ」

 俺の問いにアリサは首を横に振った。髪の隙間から艶かしい首筋が垣間見える。


「今回のゲームは、私が起こした完全犯罪と成り得るものを推理してもらうわ」


 なるほど。つまり。


「俺は完全犯罪になることを阻止すれば勝ちなわけだな」


「ええ。それだけよ。簡単でしょう」


「確かに単純明快で良い。だが、今回のゲームは完全犯罪の定義を共有しておかなければ成立しないだろう?」


「そうね……まず、犯人が捕まらないことは大前提として」


 犯人が捕まった完全犯罪なんて完全犯罪じゃない。完璧な失敗作である。


「……犯行が露見しない。被害者が見つからない。加害者が判明しない。証拠が見つからない。トリックが見破られない。法的に裁かれない。このうちのひとつ以上を満たすもの……ってウィキペディアに書いてあるわね」


「いま調べたのかよ」


 先程から白く細い指で携帯をいじっているから何かと思えば調べていたのか。

 このゲーム、そんな行き当たりばったりなのかよ。


 大丈夫だろうか。不安である。


「加害者は私だとわかっているから除外するわ。トリックも使っていないから除外していいわね。……法的に裁かれない、これをどうしようかしら?」


 アリサは顎に指を当てて可愛らしく小首を傾げる。


「除外していいんじゃないか?」


 流石に、部活動で法の裁きを受けなければいけないことをアリサがしているとは思わない。

 いままでの付き合いで、それぐらいの分別はあるやつだと信じている。


 ……おそらくは。



「私が大罪を犯しているかもしれないわよ?」


 俺の自信のない信頼に気付かれたのか、アリサの口の端に笑みが見てとれる。


「アリサは常に大罪を犯しているだろう、――怠惰というね」

「それもそうね」


 俺達は声を出して笑った。


「私、ワトスンがいないと死んでしまうかもしれないわ」


「それはいいね。俺にも完全犯罪ができそうな気がしてきたよ」


「怖いわね。そうなる前にちゃんと遺書を用意しておかなくちゃいけないわ。私を殺したのはワトスンです、って」


「何もしていないのに犯罪者にされたら、たまったもんじゃないな」


「だから……捨てないでね?」


 アリサは俺の顔を上目遣いで見ながらしおらしく言う。


 心臓が大きく脈を打つ。

 顔が赤くなっているかもしれない。

 からかわれているのはわかっている。

 アリサに顔を見られたくないので少し俯いた。


 アリサはそんな俺に見せつけるかのようにまた脚を組みかえる。

 思わずその滑らかな白に目が行ってしまう。


「……それで、俺は結局何を証明すればいいんだ」


 強引に話題と目を逸らす。


「あなたに証明してもらうのは、犯行の内容、それによる被害者、そしてそれを示す証拠。この三つを提示できればあなたの勝ち。ひとつでもできなければ私の勝ち。これでどうかしら?」


「それで良い。詳しいルールはどうするんだ?」


 勝敗の決し方はわかった。しかしこれだけではとてもゲームとは呼べない。


「まずは犯罪なのだから時効が必要ね。……そうね。時効成立は下校時刻にしましょう」


 いまからだと、――丁度一時間後か。


「他には何がいるかしら」


 そうだな……。


「事情聴取。質問は可能か?」


「ええ、もちろん。ただし質問は三回まで。そのうちの一回は私に黙秘権がある。それ以外は本当のことを答えるわ。……あ、でも質問はイエスかノーで答えられるものにしてくれる?」


「了解。……決めるのはこれくらいで良いだろう」


 俺は早速推理を始めようとする。


「待って」

 アリサが制止の声をあげた。


「どうせだから罰ゲームを決めましょう」


「別に構わないが、内容によるぞ?」


「そうね。定番だけど、何でもひとつ勝者の言うことを聞く、というのはどうかしら」


「程度を弁えてくれよ?」


「もちろんよ」


 アリサはほんのりと頬を赤く染める。


「こんなところで未来の旦那様に嫌われたくはないもの」


「誰が旦那だ」


「私、これでも尽くすタイプよ?」


「ほう。どんな風に?」


 アリサはこほん、と咳払いをした。その目は弓のように引き絞られていた。

 悪魔君臨。

 俺には背中に黒く先の尖った翼と尻尾が見えている。



「おかえりなさい、あなた。お風呂掃除にする? 晩御飯作る? それとも、で・て・く?」



「離婚しよう」


 アリサが尽くすなんてやっぱり幻想でしかなかった。

 俺は少し彼女の将来が心配になった。いや、それは正確ではないな。こいつと結婚させられる男に心底同情する。

 誰になるか知らないが強く生きてくれ。


「そろそろゲームを始めましょうか」

「ああ、そうだな」

「あなた行ってらっしゃい」

「早めに帰る」


 自棄だった。

 俺は深いため息をついて気持ちを切り替え、推理を始めることにした。


          ●


 さて。

 今回のゲームにおいて、俺が明らかにしなければいけないものは、犯行内容、被害者、証拠の三つ。ひとつでも欠ければ負けになる。


 罰ゲームがある以上、負けるわけにはいかない。


 であれば、三つの中で最初に確定させるべきは、犯行内容だ。これがわからなければ勝利は夢のまた夢。


 まずはひとつ確定させておくか。


 答えてくれる確証はないが、質問を一回使うことにしよう。

 意を決して顔を上げると、アリサと目が合った。


「アリサ、質問のひとつ目だ」


「何かしら?」


「完全犯罪になり得るというくらいだ。証拠隠滅は万全なのか?」


「もちろん。この部屋に証拠は残っていないはずよ」


 やはりか。

 アリサの言う通り、部屋の中に普段と違った箇所は見受けられない。

 何か隠したとしても見つかってしまえばそれが証拠になる。

 だから、盗みなども候補から外して問題ない。


 そもそも、俺が来るまでにアリサが使えた時間は一時間弱だ。

 それに、いつ俺が戻って来るか正確にはわからなかったはず。

 その間に犯罪と隠蔽を実行するのは難しいだろう。


 ……困った。

 思った以上に推理のとっかかりがない。


 気分を変えようといままで放置していたコーヒーに口をつける。

 猫舌ではないが、飲みやすい温度になっていた。

 珍しく開かれていた窓から入ってくる風のおかげだろうか。

 しかし、頭を使うことになるとわかっていたら、もう少し甘くしたのに。砂糖追加するか。


「どうしたの?」


 立ち上がった俺にアリサが訊いた。アリサから見ると突然過ぎたか。


「糖分が欲しくなってな」


 アリサのマグカップの中身がなくなりかけていることに気付いた。


「もう一杯飲むか? ついでに淹れるぞ」

「それは質問かしら」

「いや、ただの提案だ」

「それは残念。せっかくの提案だけど、まだ自分で淹れた分が残っているから遠慮するわ」


 再度給湯スペースに移動し、角砂糖を二つ追加する。温度が下がったせいか、少々溶けにくい。

 先程使ったティースプーンでかき混ぜ、強引に溶かしてしまう。これくらい良いだろう。

 俺は再びアリサの対面の椅子に腰を下ろす。

 そして、コーヒーに口をつける。残念。今度は甘くし過ぎた気がする。


「コーヒーを飲むとケーキが食べたくなるわね」


「俺は勘弁だな。このコーヒーにケーキをつけられたら拷問でしかないからな」


 明らかに俺が砂糖を入れすぎたことに気付いての発言だ。

 ひとのことをよく見ている。それがすべて俺をからかう方向に行くのは勘弁してほしいが。


「それは自業自得でしょう。

 ――そうだわ。明日のお菓子はティタニアのケーキにしましょう」


 ティタニアは学校近くにある洋菓子店だ。

 駅前にあるムーンライトとこの街の人気を二分する店である。俺は甘さ控えめでフルーツの酸味のきいたシャルロットが好きだ。だから。


「俺の分はシャルロットで頼むよ」

「私はモンブランが食べたいわ」


 アリサは契約を持ちかける悪魔のように微笑みを浮かべる。


「どうかしら。罰ゲームに明日のお菓子を買いに行くことを加えるのは?」


 それは良いな。俄然負ける気がなくなった。

 それに、糖分を補給したことによって、いくつかとっかかりは見つかった。


 あとはどうやって繋げていくか、だ。




          ●



「明日のケーキはアリサに奢って貰うことにしようか」


 時効まであと十五分といったところで、俺はアリサのお株を奪うように微笑み自信たっぷりに勝利宣言をした。


「自信満々ね。ワトスンの推理、聞かせてもらおうかしら」


 けれども、アリサの顔からは微笑みが絶えなかった。余程、自信があるのだろう。


「さて」


 俺は力を抜いて身体をパイプ椅子に預ける。


「完全犯罪の否定なのだから条件をひとつずつ潰していくことにするか。確か、犯行内容、被害者、証拠……だったな」


「ええ、そうよ」

 アリサが頷く。


「そうか。では犯行内容の説明に入る前に、質問の二つ目だ」


 俺はアリサの瞳を見据える。


「君の犯行は法を犯したわけではないな」


 この質問だけは答えてもらわなければ、安心してゲームに臨めない。

 そんな俺をよそにアリサはいつも通りの意地の悪い笑顔を浮かべて答える。


「答えはイエスよ、ワトスン。……心配した?」


 どうしても法に触れる可能性がひとつだけぬぐい切れなかったのだ。


「ああ、心配したよ。何せ一一〇番通報は初めての経験だからね」


「酷いひと。あなたは私をかばってはくれないのね。悲しいわ……」


 よよよ、とアリサは口元を押さえて瞳を潤ませてみせる。

 だが、俺は知っている。手で隠された口元に笑みが張り付いていることを。


「俺も悲しいさ。だけど俺も善良なる一般市民だからね。犯罪者を野放しにはできないんだ」


「あなたが捕まえていてくれればいいのに」


「俺は警察官ではないからね。それは捕まえるとは言わない。匿うと言うんだ」


 アリサの共犯者なんて御免だ。


「ずるいひと。そんな意味で言ったんじゃないってわかってるくせに」


 責めるような目つきで睨んでくるアリサには取り合わない。


「……話が逸れているな。本題に戻ろう」


「そうね。ワトスンとの会話は刺激的だけど、今はあなたの推理が聴きたいわね」


 では、ご要望にお応えして。アリサの罪を暴いていくことにしよう。


「まず俺が疑問に感じたのは部屋に入ったときに消臭剤の匂いがしたことだ。

 では何故君は消臭剤を使う必要があったのか。

 これは当然何かの匂いを消すためだ。

 窓が珍しく開いていたのも同じ理由だろう。

 そして、その何かこそが君の言う犯罪内容の核心だと俺は考える。

 ここまではいいか」


「どうぞ続けて」

 アリサが少し首を傾け微笑する。


「君が隠したかった匂いは何か。

 俺は始め煙草を疑った。

 でも、君が法を犯していないと証言した以上この考えは間違いだ。

 まあ、訊く前からわかっていたことではあったが」


 俺はここで一度言葉を切った。

 のどを潤すために甘ったるいコーヒーを飲む。アリサもコーヒーを手に取って俺の推理の続きを黙したまま待っている。マグカップをテーブルの上に戻すと再度俺は口を開く。



「端的に結論から言おう。アリサ。――ムーンライトのケーキ、美味しかったか?」



 俺の辿り着いた解答はアリサは部室でケーキを食べたということだった。


「……どうしてムーンライトのケーキだと思うのかしら?」


 コトッと音を立ててアリサはマグカップをローテーブルの上に戻す。


「君が言っていただろう?

 『明日のお菓子はティタニアのケーキにしよう』と。明日のお菓子はティタニアのケーキ。

 なら――今日のお菓子は何だ?」


「いいわ。もし仮に私がムーンライトのケーキを食べたとしましょう。でも、それのどこが犯罪なのかしら?」


 余裕の笑みを崩さずアリサが尋ねる。それに俺は獰猛な笑みを浮かべ答えてやる。


「ああ、普通ならそうだろうさ。

 だが、この部室に限ってしまえばそれは犯罪になり得る。

 覚えていないとは言わせない、――推理研究会の会則を」


 ひとつ目は「自由な発想で推理を行うこと」、ふたつ目は「人の推理は論理的な思考によって否定すること」、そして、三つ目は――



「お菓子をひとり占めしないこと、ね。郷に入っては郷に従え。ルールがある以上ここなら犯罪になり得る、と言うことね」



 俺は頷く。


「そうだ。ここまで言えば被害者は一目瞭然だが一応言っておこう。被害者、それは俺だな」


「ワトスンの話が真実だとすれば、ね。

 今のままじゃ、その推理はすべてあなたの被害妄想にすぎないわ」


 わかっている。

 これはまだ想像、仮説の域を出ない。この話を現実のものとするにはあとひとつ必要なものがある。


「そう慌てるな。まだ俺は、証拠が見つからないを否定していない」


「証拠は見つかったかしら?」


 アリサは楽しげに訊いてくる。


「残念ながら見つかっていない」


 そこまでする時間はなかった。


「それは本当に残念ね。明日のケーキはいつもよりも美味しく食べられそう」


 俺の答えを聞いたアリサはあどけない少女のように頬を緩ませる。


「だから慌てるなと言っているだろう。見つかってはいない。だが、どこを調べれば出てくるかは見当がついている」


「聞かせてもらえるかしら」


 先程垣間見せた表情とは打って変わってアリサは妖艶な大人の表情を見せる。


「学校のゴミ置き場。そこを探せばきっと出てくるはずだ。ゴミ袋の中から――ケーキの入っていたと思われる箱や銀紙が」


「どうしてそう思うのかしら?」


「前回ゴミ収集所にゴミを持って行ったのは三日前。

 それなのにゴミ箱は空。

 辺りを見回してもいっぱいになったゴミ袋は見当たらない。

 だとすれば、ゴミはどこへ行ってしまったのか。

 決まっている、ゴミはゴミ置き場にある。業者が取りに来るのは明日だからな」


「他の場所に持って行った可能性はないと言いきれるの?」


「ないな。時間的に考えて君がケーキを食べたのは部室に来てすぐなはずだし、俺の分まで食べていたのなら残っている時間もそんなになかっただろう。その時間内で可能な限りの証拠隠滅を行わなければいけないんだ。ゴミを学外まで出しに行くことは物理的に不可能だ」


 それだけじゃない。理由はまだある。


「それに、クラスメイトがチャイナドレスを着ていたって話をしたとき、アリサは『エグい』と言ったよな。

 その感想は浅美が男だと知ってないと出てこないんだよ」



 おそらくゴミを捨てに行った際にアリサは、同じくごみを捨てに行ったチャイナドレス姿の浅美を見かけたのだろう。

 だから、浅美のことは知らなくてもエグいという感想が口をついて出てきた。

 そして、浅美は俺と会ったときゴミを捨てただけだと言っていた。

 つまり、あのときはまだ十五分程度しか出歩いていなかった。

 それを目撃できたということは、俺が部室に来る寸前まで証拠隠滅がおこなわれていたことを意味する。

 机に本を積んでいたことも、本を俺に片付けさせたことも、ずっと読書をしていたかのように印象付けるためだ。


 俺の推理を聞いたアリサはゆっくりと瞳を閉じた。

 そして何かを噛みしめるように二度小さく頷いた後、静かに眼を開く。俺達の視線が合わさる。



「正解よ、ワトスン」



 アリサは小さく拍手をしながら俺に満足そうに微笑みかける。

 正解と聞いて気を良くした俺は勝利の美酒、とはいかないが残っていた甘いコーヒーを飲み干した。

 アリサは少しして拍手をやめると「でも」とまだ訊きたいことがあるのか、言葉を続けた。


「聞いた話だけだと、私がお菓子のひとり占めをしたという推理に辿り着けるとは思えないのだけど。

 ……例えばあなたが先程挙げた煙草の可能性を否定できないはずよ」


 そういえばこの推理に至った最大の理由を説明していない気がする。

 だが、煙草の吸い殻をゴミ捨て場に持っていくことはリスクが高い。証拠隠滅にしてはお粗末過ぎる。

 アリサがやるとは思えない。


「この部屋には明らかに不自然な点があるんだよ。……何かわかるか?」


 アリサはローテーブルの上に置いてあるマグカップへと手に取る。


「わからないわね」


 アリサがコーヒーの入ったマグカップに口をつける。


「それだよ。君が今手に持っているものだ」


「いつもと同じマグカップだと思うけど」


「そうだな。コーヒーもいつもと同じミルク入りのものだ。だが、だからこそ不自然なんだよ」


「何が不自然なの? いつもと同じなら自然でしょう」


 どうやらアリサは自身の犯したミスに気付いていないらしい。

 いや、気付きながらも平然ととぼけているのか。俺には判別できなかった。



「不自然だよ。この部屋のどこにも『ミルクの入っていた容器がない』のは」



 そう。

 おそらくアリサはケーキの箱などを処分するときに一緒に捨ててしまったのだろう。

 だからミルクの入ったコーヒーはあるが、ミルクの入っていた容器が存在しないというおかしな状況が出来上がってしまった。


「大方ブラックコーヒーを飲んでいたのを隠すためにミルクだけ入れたんだろ。で、他のゴミと一緒に容器を処分してしまった。それに気付いたとき一瞬にして繋がったよ」


 アリサが机に置いたマグカップが視界に入った。中身は残っている。なんだ、証拠があるじゃないか。


「その証拠に――」


 俺は腕を伸ばして、アリサのマグカップを手に取った。あっ、と向かいで声が上がるがそのまま口をつける。


 苦い。


 俺がさっき飲んだコーヒーとは大違いだ。だから、驚いた表情のアリサに向かって俺は言葉を続ける。


「ほら、君のコーヒーには砂糖が入っていない。君が砂糖を入れずにコーヒーを飲むのは、ケーキと一緒のときくらいだからな」


 これで証明終了だ。

 ふう、と俺は息を吐いて緊張の糸を弛緩させる。そして、手に持っていたマグカップを机に置いた。中身はもう残っていなかった。


「凄いわ、ワトスン。まるでホームズね」


 アリサは胸の前で手を合わせ、祈るようなポーズで俺を誉め称える。


「冗談はよしてくれ。ホームズだったらこの部屋に入った瞬間に『おや、ケーキでも食べていたのかな。僕の分はどこにあるんだい?』とでも言うだろうさ。だから俺にはワトスンがお似合いだよ」


「そうね。ホームズだったら、私の飲みかけのコーヒーを奪ったりしないものね」


 確かにホームズはしないだろう。

 女性嫌いだったはずだが、紳士的に振舞うだろうから。けれど、俺だって普段ならしない。証拠を見つけた高揚感からつい身体が動いてしまった。


「それは悪かった」


 どうせ飲み切るつもりもなかっただろうに。コーヒーは冷めていて飲めたものではなかった。


「許してあげる。私はメアリー・モースタンになるわけだし」


「今日の君は結婚ネタばかりだな」


「四つの署名の終盤でワトスンがプロポーズするのよね。……あ、そうだ。私の罰ゲームは決まった? もちろん愛の告白でも良いわよ?」


「それは未来のどこかで出会うメアリーのために取っておくよ」


「じゃあ私、ワトスンに何させられちゃうのかしら。……怖いわ」


 自分の体を抱きしめるような仕草をするアリサ。


「何を想像してるのかは知らんが、それはない」


「つれないわね」


「当然だ。……で、罰ゲームの件だが、決まったぞ」


「何かしら?」


「ムーンライトに行くぞ。当然、アリサの奢りで」


 俺の分まで食べてしまったのだから、これは当然の権利だろう。

 使用したマグカップを片づけた後ソファに置いてあった荷物を持って立ち上がり、出口に向かおうとしてふとひとつ気になった。

 だから、振り向いてアリサに問いかける。


「最後にひとつ訊いていいか。今日の話はどこまで本気だったんだ?」


 旦那やら結婚やら愛の告白と言ったアリサの科白。

 俺にはあれの真意が掴めなかった。

 普通に考えれば、俺をからかいたかっただけだと思う。しかし、それだけではないような気がしたのだ。

 俺の問いにアリサは、ふふっと悪戯を思いついた子供のように笑った後こう答える。



「黙秘権を行使するわ」

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― 新着の感想 ―
[良い点] おもろい… なるほどね。男だったのか。一つ一つの違和感や情景が1つの結論に収束していく、お見事です。 倒叙ミステリのはずなのに全くわからなかった笑笑 そして終わり方も爽やかで心地良い。最高…
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