26-3 豊穣の女神
アルハードが今いる場所は、インスマスから十分に離れた場所だ。
護衛にはクトゥルフ一人だけ。もしも『シュブ=ニグラス』が攻撃してきた場合、ムーン=ビーストと言えど歯が立たないとクトゥルフに言われたためだ。
アルハードはクトゥルフが本気で戦っているところを見たことがない。その為クトゥルフがどれほど強いのか知らない。しかし、クトゥルフがその気になれば、あのダゴンですら赤子の手を捻るようなものだと聞いていた。
今から召喚するのは、そのクトゥルフでなければ対処することができない神格。『シュブ=ニグラス』を召喚することに一抹の不安を覚えるが、インスマスの為に腹をくくる。
『豊穣の女神召喚』の呪文は完璧に覚えてきた。ついでに退散の呪文も覚えた。
もし襲い掛かってくるようなことがあれば、クトゥルフが時間を稼ぎ、その間に退散の呪文をアルハードが唱える手筈になっている。
「――よしっ、やるか!」
「アルよ、本当に『シュブ=ニグラス』を召喚するのか?」
気合を入れたアルハードに、この期に及んで煮え切らない様子でクトゥルフが問いかける。
『シュブ=ニグラス』はけして好戦的な邪神ではないと、クトゥルフ本人も言っている。それにも関わらず、どうしてここまで渋っているのかアルハードにはわからなかった。
「やる! てかそんなに『シュブ=ニグラス』ってやばいやつなのかよ」
「いや……召喚したくらいで腹を立てて襲い掛かってくるようなやつではないが……なんというか……気に入られた時があまりよろしくない」
気に入られた時がよろしくないというクトゥルフに、アルハードは訳が分からず首を傾げる。
別に気に入られたい訳ではないが、気に入られるのであればそれは良いことなのではないか? というのがアルハードの心情だ。
インスマスの皆にも、期待して待っててくれと言ったばかりだ。今更やっぱりやめたなんて言える訳もない。
困ったような顔をしているクトゥルフを振り切り、アルハードは呪文の準備に取り掛かる。
詠唱をし、魔力を練り上げていく。前方に両手を突き出し、そこに魔法陣をイメージしていく。
やがて巨大な魔法陣が空中に描かれ始めた。それに更に魔力を注ぎ込む。
実際自身で体験したことがあるクトゥルフだったが、アルハードの規格外の魔力量に舌を巻く。
アルハード自身も、放出されていく魔力の量に驚いていた。
クトゥルフを復活させる時は、すでにそこに居るクトゥルフに魔力を注ぎ込むだけだったが、今回はそうではない。
完全な召喚を行うのだ。クトゥルフの時とは使用する魔力が桁違いである。しかも呼び出すのは神格、ムーン=ビーストを召喚するのとは訳が違う。
やがて魔法陣が完全な形になると、アルハードは大きく叫んだ。
「来い! 『豊穣の女神シュブ=ニグラス』!」
一際大量の魔力を魔法陣に注ぐと、そこから闇が姿を表した。
黒い雲状の塊。それは見た者に闇を連想させるだろう。
泡立ち爛れている黒い塊から、大小様々な触手が生えてくる。その触手は不規則に動いているが、その様がまるで獲物を探しているように見える。
時折大きくうねりを上げ、雲状の塊が巨大な口を形成しては、膿のような粘液を滴り落とし、再び黒い雲に飲み込まれていく。
触手が捻れ重なり合い、先端が黒い蹄のようになっている太い足を形成していく。
ルルイエで見たクトゥルフ程の大きさはないが、それでもその巨大な身体は、空を覆い隠してしまうのではないかと錯覚する程だ。
とてもこの世の者とは思えない、目の前に光景にアルハードは言葉を失っていた。
いつまでも呆けているアルハードをクトゥルフは怪訝そうに見つめる。
本来神格である神話生物を目の当たりにすれば、常人ならば狂ってしまうだろう。アルハードはクトゥルフを見ても何もなかったことから平気だと思っていたクトゥルフだったが、『シュブ=ニグラス』を目の前にして精神に不調をきたしたのではないかと心配する素振りをする。
しかし、そんなクトゥルフの心配は杞憂だった。なぜならアルハードは、『シュブ=ニグラス』に見惚れていたからだ。
アルハードの後ろに控えているクトゥルフには見えないが、アルハードの目はキラキラと輝いていた。
誰も言葉を発しない中、一番初めに口を開いたのは『シュブ=ニグラス』だった。
形成されては消えていく巨大な口から、粘膜とともに不気味な声が発せられた。
「人の子、私を呼んだのはお前か?」
耳に残る嫌な感じの響きを持つ声に、呆けていたアルハードは戻ってきたようだ。
「お、おう」
「一体何が目的だ」
「えーと……畑?」
他にもっと言いようはあるのだろうが、『シュブ=ニグラス』に見惚れて頭が空っぽになっていたアルハードの返しは酷く間抜けなものだった。
『シュブ=ニグラス』自身もそんな返答が返ってくるとは思っていなかったようで、両者の間には気まずい雰囲気が漂っている。
ただ一人、この場でクトゥルフだけは笑いを堪えていた。
邪神と呼ばれる、超常の力を持った存在を呼び出しておいて、事もあろうに畑が望みなどという者はこの広い世界を見渡してもアルハードしかいないだろう。
「畑……? 貴様はこの私を馬鹿にしているのか?」
困惑しているのだろうか、『シュブ=ニグラス』の身体から伸びている大小様々な触手の動きが鈍っていた。
そんな『シュブ=ニグラス』の様子を見てアルハードは、怒らせてしまったのではないかと焦り、懸命に言い訳をする。
「あ、違う、違う! 『シュブ=ニグラス』ならこの枯れた大地に恵みを与えられると思って!」
「大地に恵みを? 確かに私ならば可能だ」
「ならお願いしてもいいか?」
「お願いなどと……人の子よ、私を見て貴様はどう思った?」
アルハードは大地に恵みを与えて欲しいという話をしていたのだが、それが突然『シュブ=ニグラス』自身を見てどう思ったから聞かれ焦った。
なぜそんなことを? という思いと、見惚れてたことがバレたのか!? という焦りだ。
当然『シュブ=ニグラス』は、見惚れていたことがどうこうという意味で問うたのではなかった。アルハードは盛大に勘違いをしているだけである。
しかし、アルハードの中では、好きな女の子を見つめていたら、その子の友達から今あの子の事見てたでしょ? と指摘されたのと同じ様な感覚だったのだ。その後、あの子の事が好きなんでしょー? とからかわれるまでの流れを想像しての焦りだった。
この場合は友達ではなく、『シュブ=ニグラス』本人にであったが。
見惚れていたのは確かだったが、その事を指摘されるのは恥ずかしさを感じられずにはいられない。
「私は見ての通り醜い姿をしている」
「え?」
アルハードの考えていたこととは違い、『シュブ=ニグラス』は自身を醜い姿だと言った。
どこか噛み合っていない両者の考えに、アルハードは戸惑いを隠せないようだ。
「人は皆、私を願い召喚したにも関わらず、実際私の姿を目の当たりにした際は恐れ慄く……化け物だと。命乞いをする者、気が狂ってしまう者、自ら命を絶つ者……貴様もそうであろう?」
「いや、これは……」
戸惑っているアルハードの姿を『シュブ=ニグラス』には、醜い自分を見て戸惑っているように映ったようだ。
実際アルハードが戸惑っている理由は、からかわれると思っていたのに、何故か『シュブ=ニグラス』が自分のことを卑下し始めたためだ。
慌てて訂正しようとしたアルハードだったが、その前に『シュブ=ニグラス』は続ける。
「口にせずともわかる……私は醜い。こんな私が豊穣の女神として崇められるなど笑える話であろう?」
「そんなことは……」
「人の子よ、貴様は優しいのだな……なに、願いは叶えてやろう。そしてさっさとこの場を去るとする。痩せ我慢をするのは貴様も辛いだろう」
『シュブ=ニグラス』は自身の姿が嫌いなのだろう。どこまでも卑下し続けるその姿に、アルハードは王都にいた頃の自分と重ねていた。
けれど、『シュブ=ニグラス』とアルハードでは決定的に違うことがある。そのことにアルハードは気付いている。
王都にいた頃のアルハードは誰にも必要とされていなかった。
対して『シュブ=ニグラス』は、必要とされている。他でもないアルハードに。
アルハードは、インスマスに来て初めて誰かから必要とされるということを実感することができた。誰かから必要とされることは、とても嬉しくて誇らしいことだと知っている。
だからこそアルハードには、『シュブ=ニグラス』の勘違いを正す義務がある。そうしなければいけないと、強くそう思った。
『シュブ=ニグラス』が召喚された時、アルハードは確かに見惚れていた。綺麗だと思った。
醜いなどとは思っていない。痩せ我慢なんてする必要など何処にもない。
本人に向かって綺麗などと口にするのは恥ずかしいが、言いたいことは言うのがインスマスのルールだ。村長の自分が言えなくてどうする。
そう自分に言い聞かせる。
それと、邪神は皆人の話を聞く気が無いやつばかりなのかな? と若干の呆れも感じていた。いいからまずは俺の話を聞けと、そう言わんばかりにアルハードは声を上げた。
「綺麗だと思ったんだ!」
恥ずかしさを誤魔化すために叫ぶ。それでもやっぱり恥ずかしいものは恥ずかしいと思う。
突然綺麗などと言われた『シュブ=ニグラス』は、何を言われたのか理解が追いついていないようで、何も言わない。顔が無いため表情はわからないが、恐らく戸惑っているのだろう。
一方先程からずっと静観していたクトゥルフは、ほう。と小さく感心したかのようなため息を漏らした。
「だから、俺は『シュブ=ニグラス』お前を見て綺麗だなって思ったんだよ! 化け物? 怖い? 気が狂う? ふざけんな馬鹿! 見惚れてたんだよ! 一々言わせんな!」
「なっ、貴様は何を言って――」
「そのどこまでも深い黒に、闇に、俺は綺麗だと思って見惚れてたの」
「そんなはずは、私の姿はこんなにもみにく――」
「それさぁ、誰が一体そんなこと言ったわけ? 『シュブ=ニグラス』はこんなに綺麗なのに、醜いとか、化け物だとか……そいつ見る目無さ過ぎ」
胸の前で腕を組み、はぁ~、と心底呆れたようにため息を吐くアルハード。『シュブ=ニグラス』はついに言葉を無くした。
その姿にアルハードは、まだ自身の言葉は届いていないのかと思い、更に言葉を重ねる。
「なんと言おうと『シュブ=ニグラス』は綺麗だと思うよ。うん、俺が保証するし、もし醜いだなんて言ってくるようなやつがいたら俺が怒ってやるよ! あと『シュブ=ニグラス』はもっと自分に自信持てよ! 自分で自分のこと醜いだなんて言ってたらダメだろ? 自分に自信を持ってるやつは輝ける可能性を秘めてるって、誰かが言ってたぜ」
はて、一体そんなことを言っていたのは誰だっただろうか。幼い頃の記憶だったような気がする。言葉は心に残っていたが、それを言った人物の顔が思い出せない。
とはいえ今は誰が言っていたかなんてどうでもいい話である。
アルハードの言葉は『シュブ=ニグラス』に届いただろうか。その事がわかるのは『シュブ=ニグラス』本人だけである。
アルハードは先程から無言の『シュブ=ニグラス』を見つめる。伝わったかどうか不安だったが、ここで不安そうなところを見せてはいけない。自分の言ったことは本心なのだと『シュブ=ニグラス』に伝えるため、目には力を込め見つめる。
「あ……うぅ……」
暫くして声を発した『シュブ=ニグラス』だったが、それは言葉ではなかった。そこには邪神としての威厳など何もなく、そして。
「うううううううううううううううううううううううううううう」
とヘンテコな唸り声を上げた後、その姿を消してしまった。
「えぇ……」
思いもよらぬ『シュブ=ニグラス』の行動に、アルハードはただただ戸惑うばかりであった。
クトゥルフはついに笑いが堪えられなかったようで、高らかに笑い声を上げた。
「ククッ――あーはっはっはっはっはー」
「お、おい! 何笑ってんだよ! てか『シュブ=ニグラス』は何処行ったんだ!? まさか怒って帰っちまったのか!?」
自身の言葉に『シュブ=ニグラス』が怒って帰ってしまったのかと思い、青ざめるアルハードであった。しかし、どうやらそうではないことは、クトゥルフが教えてくれた。
「いやはや、流石はアルだ」
「何がだよ」
クトゥルフがなぜそんな態度なのかわからないアルハードは、少し不機嫌だ。
「いやすまん、そういうことではない。それにあやつは怒ってなどおらんだろうな」
「じゃあなんでどこかに行っちゃったんだよ」
「ふっ、まぁ少しすれば姿を現すだろう。さぁ、我らもインスマスへと戻るぞ」
そう言ってさっさと踵を返してしまうクトゥルフ。
腑に落ちないアルハードだったが、クトゥルフが止まる気配がなかったので、仕方なく後を追った。
豊穣の女神が思ったよりも長くなってしまってます……。
もう一話続く予定です。
このままだと三章が二十万字くらいの勢いです……。
なんとか十五万字に収められるよう頑張ります。




