2-1 『アル・アジフ』
王都の中心地となる場所に位置する王宮。この国に王宮よりも高い建物はなく、その高さは国王の権力の強大さを象徴しているかのようだ。
中央国クレイアデスは絶対王権制であり、ほぼ全ての権力を国王が掌握していると言っても過言ではない。
政治においての決定権はすべて国王にあり、大臣や他の貴族は助言という形でしか意見を出すことしかできない。
どれだけ素晴らしい意見であっても、王が否と言えば採用はされない。逆にどれほどの愚案であっても、王が許可をすれば、それが通る。
絶対的な権力を持つ王。それが、アルフレッド・クレイアデス其の人である。
しかし、アルフレッド王はその権力を私利私欲のために使うことはない。全てはこの中央国クレイアデスで生きる人々のために。アルフレッド王はその信条の元、その権力を奮う。それ故に民衆の支持も厚く、歴代最高の王と名高い。
そして、その親友とも戦友とも言われる男がいた。
ダミアン・ボールドウィン。
アルハードの父であり、大将軍である男。
政治の決定権は全てアルフレッド王にあるが、軍事に関してだけは特別だった。ダミアン・ボールドウィンは、軍事に関しての発言権が許されていた。そして、ある程度の決定権も持っている。
それは王がダミアン・ボールドウィンに全幅の信頼を置いているからである。
この国のトップは言わずもがな、アルフレッド王であるが、ダミアン・ボールドウィンは実質ナンバーツーだ。いかにアルハードの持つ、親の七光りが強力か窺い知れるだろう。
そんな親の七光り息子が、王宮へと足を踏み入れることは容易い。もはや顔パスであるアルハードは、門番と一言二言交わすとすんなり王宮へと通された。
いつものように王宮に足を踏み入れるアルハード。
誰一人としてアルハードを気に留めるものはいない。それは皆、アルハードが親の七光りでしか生きられないおちこぼれだと知っているからである。
王宮内では視線を感じることもないし、陰口が耳に入ってくることはない。誰も興味がないのであろう。
もちろんそのことに対し、アルハードも気にかける様子はない。
アルハードはまっすぐに地下の書庫へと足を運ぶ。寄り道などはしない。
王宮内で怪しい動きをしていれば父親に折檻されるだろうし、上の階に行くなど以ての外である。
王宮内では警備の兵士や、文官が多数仕事をしている。侍従の姿もあり皆忙しなく動いているが、その動作は王宮内の気品を乱すことなく洗礼されたものである。
更に王宮内では高位貴族などもおり、王族の生活圏でもある。
権力が高い者程上階におり、国の騎士や兵士とは一線を画す王族の近衛兵もいる。
公爵家の次男であるアルハードだが、とてもではないがそんな存在が多くいる上階になど行く気にもならない。
地下への階段を降りると人の気配は殆ど消える。誰も居ないということはないが、僅かばかり警備をしている兵士くらいしか見かけない。
他の部屋などには目もくれず、目的の書庫へと足を踏み入れる。
部屋に入った瞬間違和感を感じる。
決して居心地がいいとは言いがたいが、通い慣れた書庫である。少々カビ臭いとはいえ、ここの空気感は嫌いではなかったのだが、何かいつもと違っていた。
この違和感はなんだろうか。アルハードはその違和感を探る。
あまり広くはない書庫だ、人も滅多に出入りすることはない。
いつもと違ったのは、じっとりとした空気が纏わり付いてくる。どことなく、部屋全体の雰囲気が重苦しく感じる。
アルハードが感じていたものは不快感であった。
入り口からいくらも奥に行かない本棚の中に、この不快感を発しているものが存在する。この場にあってはならない、何か禍々しく邪なものがこの空間にある。
それに気づいたアルハードは、まるでそれに引き寄せられるかのように、真っ直ぐそれの前にたどり着く。
それは一冊の本。
本棚に几帳面に整列された古ぼけた本の中で、その一冊は異様な空気を放っている。そこにあってはいけない。異物感のようなものを、部屋に入った直後よりもひしひしと感じる。
見てはいけない。コレは危険なものだ。
そんな直感がする。心の中で警鐘が鳴らされる。しかし、アルハードはそれから目を離すことができない。
時間の流れが非常に遅く感じる。
まるでこの書庫の中だけ別の空間にいるような、万物に対して平等に流れるはずの、時間の流れから取り残されてしまったかのように。
直立不動のまま、その本と対峙する。
やがてたっぷり時間が経ったのち、アルハードはその本を手に取る。
分厚い本であった。タイトルは見たこともない言語で書かれている。
おちこぼれとはいえ、上級貴族であるアルハードはそれなりに教養もあり、他国の言語もいくつか知っている。しかしこの本に書かれているタイトルは、アルハードの知っている言語の中にはなく、似たようなものもない。
初めて見る未知の言語。
本の外観は、濃い目の茶色を基調とした斑模様で、真ん中にはベルトのようものがあり、本が開かないよう固定されている。ベルト自体は簡単に外せそうではあるが、このベルトが一体何の素材でできているかはわからない。
なぜだろう。この本から目を離せないのに、見ていると心が不安定になってくる。
じわりじわりと腐敗が進んでいくような、そんな感覚で心が蝕まれていく。
寒気が全身を襲う。
冷や汗が止まらず、唇はカサカサに乾いているのがわかる。
叫び出したい衝動に駆られるのに、声が出ない。
息苦しい。呼吸の仕方がわからない。
怖い。
怖い?
アルハードは自分が恐怖していることに気付く。そのことを自覚してしまったがために、アルハードの頭の中は恐怖で埋め尽くされる。
自分は一体、こんな本なんかに何を怖がっているのか。
そう思い、頭の中を埋め尽くす恐怖を払拭しようとするが、駄目だった。
両手にある本の重みを、確かに感じてしまっている。狂気を孕んだ一冊の本の重みを。
どうしてこんなものがここにあるんだ?
どうして自分はこんなところにいるんだ?
どうして自分はこんなに怖い思いをしなきゃいけないんだ?
どうして。どうして。どうして。どうして。
嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。
怖い。怖い。怖い。怖い。
頭の中を埋め尽くす恐怖。
体中を這いずり回る恐怖。
心を蝕んでいく恐怖。
そんな中にひとつだけ、恐怖とは違った感情があることに気づいた。
アルハードはそれを手繰り寄せる。それに縋るかのように、その感情が何かを確かめる。
――好奇心。
そんなバカな話があるのか。この未知の恐怖に、自分は好奇心を抱いている。
そのことが信じられなくて、それでも、その感情は確かに自分のものでどうしていいかわからなくなる。
目を離せないでいる本のタイトルが一瞬、怪しく光ったように感じた。
その時、自分はこの底知れない恐怖に対して、好奇心を抱いているのだと、そう実感した。
「『アル・アジフ』」
アルハードの口から零れたのは、この本のタイトル。
読めないはずの、見たこともない言語で書かれていたタイトルが、口から零れ出た。
この言語が読めたわけではない。
ただ、何の根拠もないが、この本のタイトルは『アル・アジフ』だということは確たる事実であると、そう思っている。
恐怖に打ち勝ったのではなく、恐怖に飲み込まれたが故の好奇心だったと、その時のアルハードは知る由もない。




