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ネクロノミコン~神話生物と暮らす~  作者: @素朴
第一章
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7-3 『インスマス』へ

 ユピの森を抜けたアルハードたちは今荒野のど真ん中にいた。


 森を抜けた時、目の前に広がる荒れた大地を目の当たりにした時は呆然としたが、今はそれどころではなかった。


「やばいって! あれはやばいって! 無理無理無理ぃ!」


 誰が聞いているわけでもないのに、思わず声に出してしまう程切羽詰まっていた。


 ナルに話しかけるだけであれば、頭の中で話しかければいいので、わざわざ声に出す必要はない。しかし今はそれどころではなく、なりふり構っていられないようだ。


(何を逃げる必要があるのですか。獲物ですよ。今までで一番立派な)


「あれは無理だって言ってるだろー!」


 今までで一番立派な獲物。


 ナルがそう言った通り、今アルハードの後を猛然と追っているのは、"槍象"と言われる魔物だった。


 "槍象"はこの旅で遭遇した動物、魔物合わせても一番大きく、そして強力な魔物であった。


 ナルにとってはただの獲物に過ぎないが、アルハードからすればそれは勝てるはずのないと思っている相手である。


 見た目は普通の象とそう変わらないが、何より特徴的なのはその鼻であった。


 槍の様に鋭利になっているその鼻先。それがこの魔物の特徴であり、名前の由来である。


 しかし魔物に詳しくないアルハードと、この世界のことについて知識の足りていないナルにとって、この魔物の名前が"槍象"だということは知らない。


 "槍象"はその凶悪な鼻を用いて獲物を狩る。それ以外にも、重量を活かした踏みつけなどでも攻撃を行うが、最も使われるのは鼻である。


 槍のように鋭い鼻先に比べ、中程は普通の象と同じである。そのため鼻先を自在に動かし、獲物を捉えるのだった。


 鞭のように薙ぐこともあるし、当然槍のように刺突もする。


 また獣皮も非常に硬く、打撃、斬撃、突きなど生半可な攻撃は全て弾かれてしまう。魔法耐性も多少備えており、中級程度の魔法であればダメージは与えられるが致命傷になることはないだろう。


 その攻撃力、防御力の高さから、並の兵士十人がかりで挑んでも勝つことは厳しいとされている。


 とはいったものの、生息地が限られているためその絶対数も少ない。その限られた生息地に足を踏み入れ、更に出くわしてしまうアルハードは不運としかいいようがない。


 重量、パワー、防御力は申し分ないが、その巨体からかそれ程スピードは無く、アルハードに追いつくことは出来ないでいた。アルハードもすでに全力で走っているが、振り切ることは出来ていない。


 "槍象"は知性のない、本能のまま行動する魔物であるため、話し合いで解決はまず出来ない。


 アルハードは交戦することなく逃げに徹していた。


 "槍象"がどれほどの脅威なのか確かめるまでもなく、凶悪そうな鼻と、今まで見たことのない圧倒的重量感を持つその巨体の前に戦う意思すらなかった。


 お互い目があった瞬間、捕食者と非捕食者が決まったかのようにアルハードは逃げ出し、"槍象"は獲物を狩るべくアルハードを追った。


「おい! なんでもいいからなんとかしてくれ!」


(やれやれ、アルは泣き言を言わせたら世界一なのでは?)


「そういうの今はいいから! ほんと助けて!」


(そうやって誰かの力に頼って、自分は逃げるだけ……アル、あなたはまた逃げるのですか?)


 挑発とも取れるナルの言葉。


 ナルにかかればあのような魔物など取るに足らないが、アルハードの成長のためとここで手を貸すことはしない。というのは建前であって、実際のところ叫びながら逃げ惑うアルハードが面白いだけだったので、もう少しこのまま見ていようというのが本音であったが、そのことをアルハードは知る由もない。


 当の本人はというと、ナルの言葉に思うところがあったのか、悔しそうな顔をしている。


「――っ! くっそ、やってやるよぉ!」


 急ブレーキをかけ、"槍象"へと対峙する。


 地面に手をつき、"槍象"の動きを止めるべく、地面の中から"槍象"に向かって触手を伸ばす。


 相手は今まで狩ってきた魔物とは比べ物にならない体躯と重量である。一本や二本程度の触手を絡めたくらいではその動きを止めることは出来ないだろう。そう判断を下したアルハードは、二十本の触手を出した。


 やろうと思えば何本でも出せるようだが、今までで一番多い本数なのは間違いない。


 アルハードが動きを止めたことを意にも介さず、むしろ獲物を狩るためのチャンスとばかりに、"槍象"は突進してくる。


 距離は三十メートル程。


「くらえ!」


 アルハードの叫び声とともに、地面の中から触手が飛び出してきた。


 "槍象"を取り囲むよう出てきた触手は、その巨体に絡みついてゆく。このまま動きを止めて、硬質化した触手で一突きにする。いつもと変わらない、この旅で磨いてきた戦法だった。


 "槍象"は脅威であったが、ここで退くことは出来ない。それでは今までの逃げていた自分と変わらない。


 アルハードの心の中には、先程ナルが言った言葉が残っていた。


 逃げてたまるか。


 アルハードの負けず嫌いな心に火が灯ったのだった。しかし現実はそんなに甘くはない。


 拘束したと思えた"槍象"だったが、ブチッという音が鳴った後、それを皮切りに同じような音が連鎖する。


 ブチブチブチブチ。


 一瞬の足止めにすらならなかった。数多の触手は、見るも無残に引き千切られてしまっていた。


「ぜっんぜん駄目じゃん!」


 アルハードから、うわーんという泣き声が聞こえてきそうな、そんな状況にナルは嗤っているようだ。


(ちょっと焚き付けたらこれですか、面白い)


 ナルの呟きは、再び逃走を開始したアルハードには聞こえていない。


 頭の中ではとにかく逃げることに意識の殆どが行っている。例え触手の数を増やしたところで、今のように簡単に引き千切られてしまうだろうと思ったからだった。


 お互いの距離はすでに十メートルほどしかない。今のがロスになり、アルハードは更に窮地へ陥っていたのだ。


 相棒は何も手助けをしてくれないし、それどころか何か考え込んでいるのだろうか、返事すらしてもらえなかった。


 泣き言を喚きながらもひたすらに走る。それでも、『インスマス』があるとされる北東方向へと進むのだけは頭の片隅に置いておく。こんな何も目印のない荒野で迷子になってしまっては、目も当てられないからである。


 アルハードが"槍象"から開放されたのは、実に三時間後であった。





 ニャルラトホテプは今の結果を思案する。


(私であればあの程度の魔物を拘束するなど、触手一本で十分なのですが、まだまだ魂の同調率が低いということなのでしょうね)


 ニャルラトホテプにかかれば"槍象"の拘束など容易い。それこそ触手一本あれば拘束どころか、その身を引き千切る事が出来る。


 魂の契約を行ったアルハードは、ニャルラトホテプの力を使うことができる。しかし、現在はまだ契約してからそれ程日数が経っているわけでもないので、魂が完全に同調しておらず、不十分な力しか振るえないのだと考察した。


(まぁ、まだ契約をしてから百日程しか経っていないわけですし、別に焦る必要もありませんね。現在の同調率からすれば、アルが完全に私の力を使えるようになるのは……三年後といったところでしょうか)


 三年。その年月は、よくて百年程度しか生きることのできない人間にとって、それほど短い年月でもない。しかし、永遠を生きるニャルラトホテプからしたら、それはあっという間だろう。


 この三年間は、アルハードの今のような姿を見ることができるだろう。


 アルハードは見ていて面白い。それがニャルラトホテプの率直な感想だった。


 三年間という短い期間。今まで気にすることもなく流れる年月であったが、その間でしか見ることのできない友の姿を、しっかり見ておきたい。


 今まで全てを見下し、嘲笑うことしかしてこなかったニャルラトホテプの心境の変化。そのことに本人は気づかない。


 (とりあえずは魂の憑依にて、何かしらの危機は乗り越えるとしましょう)


 アルハードがニャルラトホテプの全ての力を扱えるのはまだ先だが、魂の契約をしたことによって、アルハードはそう簡単に死ぬことはなくなった。けれども万が一死んでしまっては面白くない。


 そう考えたニャルラトホテプは、とりあえずの方針を固めたのだった。







 "槍象"に襲われてから一週間、あれから"槍象"には遭遇していない。しかし荒野にいる魔物は強力なものも多く、苦戦を強いられていた。


 精神干渉系の呪文は、知性のない生物には効きづらく、また敵対心を持っている存在にはあまり効力を発揮しない。


 今のところ"槍象"以外には勝つことができているが、いつまた"槍象"並に強力な魔物と遭遇するかわからないため、精神的にきついものがあった。


 何より荒野にいる魔物の肉は不味かった。


 塩などの調味料があったり、もっと時間をかけて調理すればマシになるだろうが、岩場など隠れる場所が少ないため、どうしても周囲を警戒しないといけないため、調理も焼くのみで、ささっと食事を済ませなくてはならなかった。


 肉体的にも精神的にも、アルハードの状態は芳しくない。


(『インスマス』にはまだ着かないのかよ……)


(そろそろ着いてもよさそうだと思いますがね)


(だよなぁ……てか着いたところで歓迎はされないかもな)


『インスマス』の住人について、王都で得ることのできた情報はそれほど多くない。


『インスマス』という存在自体知らない人がほとんであったし、知っていても、そこの住人は気難しいく閉鎖的な村で、よそ者をひどく嫌がるらしい。もしかしたら襲われるかもしれない。


 とはいえ、今更目的地を変更するなど馬鹿げている。


(まぁなるようになるかな)


 能天気なアルハードはあまり深く考えることなく、不毛の大地を歩み続けている。


 この頃になると、アルハードは自分の身体の変化に気づいていた。


 それは、非常に疲れにくくなっているということ。今までは休憩を挟みつつ来ていたが、最近は食事と睡眠以外の時間はほぼ歩き通していた。


 このことをナルに言ったところ、ナルの力がアルハードに馴染んできているためだと言われた。


 疲れにくいというだけではなく、現状毒などにも耐性を持つようになり、更には食事や睡眠もあまり取る必要がなくなったのだという。完全に馴染めば、一切の食事も睡眠も必要なくなるようだった。


 滅茶苦茶だな。というのがアルハードの本心である。


 しかし、あの"槍象"から逃げ切ることができたのも、そういった変化があったからである。


 倒せないとわかり、ひたすらに走って逃げたアルハードは、最終的にスタミナのごり押しで"槍象"から逃げ切ることができたのだった。"槍象"のスタミナ切れにより、あの危機を脱したのだ。


 そのことは事実であるし、王都にいた頃の自分であれば、全力疾走での逃亡など十分も保たなかっただろう。


 まぁ便利そうだからいいか。というのがアルハードの最終的な結論であった。


 どこか人間離れしていく自身を不安に思いながらも、特に不便なわけでもなく、むしろプラスになるから気にすることもないと考えていた。


 そんなことを考えていると、唐突にナルから声がかかった。


(アル、あそこに民家のようなものが見えますよ)


 え? どこどこ? と周囲を見回すが、アルハードの目には相も変わらず枯れた大地しか映らない。


(前方ですよ。まさか見えないんですか?)


(見えないし、仮に民家があるとしたらお前の目どれだけいいの!?)


 ナルのやれやれと首を横に振っている姿が脳裏に浮かび、アルハード少しばかりイラッとする。もう少し歩けばアルにも見えますよ。という小馬鹿にしたような言葉に苛つきながらも、歩みを進めること一時間。荒野の先に、陽炎のようにゆらゆらと何か見えた。


(もしかしてあれが『インスマス』?)


 ハッキリとは見えないものの、ここまで変わらなかった荒野の景色の中に、建物のような影が見えた。


(おそらくそうでしょう。その証拠に磯の香りが風に乗ってますし)


(磯の香り……あー、微かにだけど魚の匂いがするな)


 海を見たことがないアルハードにとって、磯の香りというのはよくわからなかったが、乾燥した空気の中に、生魚のような匂いがすることが感じられた。


 そう言えば、王都で聞いた情報では、『インスマス』は非常に磯臭い場所だと聞いたような気がしていた。となるとアレが件の『インスマス』なのだろう。


 ついにアルハードは目的地を目と鼻の先に捉えたのだった。


 存在するかどうかもわからない『インスマス』。それが目前だということに、アルハードのテンションは上がる。先程ナルに小馬鹿にされて苛々していたことなどすっかり忘れていた。


(やった! 遂に『インスマス』にたどり着いたぞ!)


(えぇ、そうですね。この旅も楽しかったですけど、『インスマス』でこれからアルがどう動くか楽しみですね)


(まぁ見てろって、きっと楽しいものが見れるぞ)


(アルがどんな滑稽な姿を見せてくれるのか、本当に楽しみですよ)


(そっちかよ!)


 結局ナルにおちょくられるのかと、アルハードの上がったテンションは急速に下がっていった。しかし、何はともあれ『インスマス』は捉えた。


 日もだいぶ傾いてきており、今日中には着きそうに無かったので、今日はもう一晩だけ野宿をすることにする。


 しばらく美味しい食事は摂れなかったし、魔物の襲撃に警戒していたため、熟睡もできていない。尤も、旅の途中からは空腹を感じる頻度も、それほど長い時間眠る必要もなくなっていたのだが。


 『インスマス』に着いたらまずはお腹いっぱい食べよう。漁村と言われているので、きっと魚料理が美味しいに違いない。宿も高級宿などは期待していないが、久しぶりにベッドで眠りたい。


 アルハードは『インスマス』でのこれからに心躍らせる。


 とりあえずその前に、自分が指名手配犯だと村民に知られていないかの確認をしようと考えていた。


 ここまでの道のりは、街道以外で人には会っていないので、本来の姿で旅をすることが出来たが、明日は一応旅人の格好で行こう。そんなことを考えながらアルハードは明日に備える。

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