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カンブリアの蝶  作者: 舛田 久


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4

バーの薄暗いカウンターで目が覚めた。


頬づえをついた姿勢のまま、うつらうつらしていたらしい。何かの夢を見ていたような気もするが、よく思い出せない。かすかに頭痛がする。夢の中でハルカの歌声が聞こえていたような気がするが、店のスピーカーからは微かに別のブルースがかかっている。気のせいかもしれない。


彼女の歌うのはいつもけだるいブルースだ。スペイン語の歌詞は分からないが、翻訳された意味を読むと、ありふれた日常を自然に歌にしているだけ、と思う。


自然体。


彼女の唯一の、そして最大の武器はそれだ。文章にしても写真にしても、そして歌も、技巧は最低限でひたすら愚直なまでに自然に表現する。他のマルチタレントと呼ばれる人と同様、批判も多い。いわく、全てにおいて素人に毛の生えた程度のレベル、突出した才能が感じられない、オリジナリティーは特にない。際立った美女というわけでもなければ、抜群のスタイルをしているわけでもない。


でも、じゃあこの絶対的な魅力はどう説明すればいいのか。


一般に「才能」、と呼ばれるものが、彼らの言うようにそれほど無いのであれば、彼女の存在自体の魅力というのはほとんど、「魔力」に近いものだ、と私は思う。


私は完全にその力に屈服している。


空になった、果実酒のグラスをもてあそんでいると、すぐ横から男のつぶやき声がした。カウンターに広げていた、ハルカの小さな写真集をなれなれしく自分の方に引き寄せる。私に話し掛けたらしい。まじまじと写真に見入る男の顔を見た。顔ははじめて見る男だ。


「その人、知ってる?」


顔を覗き込むと、男はおどおどした目つきを隠しながら、言った。


「いや。でも、この場所は知ってる」


撮影場所は某工場跡地、と短く書かれてはいるが、それがどこの県にあるのかも知らない。


ふいに、そこへ行きたくなった。写真のハルカと同じ位置に立つと、彼女と接点を持つことになるのではないか。そのとき、何か大事な事を感じることができるのではないか。


「連れて行ってやろうか」


私の考えを読んだように男が言った。声は少しかすれていた。


「あなた、カメラ持ってる?」


男は少し戸惑ったように黙った後、持ってる、そう言った。同じ場所で写真に撮られてみたい。私はハルカと同化する予感に、ちょっと興奮した。




約束をしたのは、翌日の夜。休日の前ということもあって、遅い時間に決めた。


私は朝からいつものように研究室で化石のクリーニングをした。昼食をとりながら、備品として購入された、ラベルが貼ってある科学雑誌を広げていると、無口な助手が話しかけてきた。彼が話しかけてくることは珍しい。私が見ていた特集記事が、古生代・カンブリア紀のものだったからだろう。


「君はカンブリアの生命爆発に興味あるの?」


普段なら、素っ気無く会話を打ち切るための答えを口にするところだが、自分でも意外なほど、自然な言葉が出た。夜の予定のせいで、わずかに気分が高揚していたのかも知れない。


「ちょっと面白いとは思いますね」

「どういうところが?」

「デザインもデタラメ。計画性も無し。でもみんな大まじめなところ」


カンブリア紀の初め、まだ、生物デザインの黄金率が見つからなかった時代、創造主はあらゆる形を試そうとしたらしい。五億年前の古生代の初め、俗に言う生命爆発の時代だ。


例えば生物の目の数にしても、最初は一つ、どうやら一つより二つの方が具合が良さそうだと分かると、さらに発展形として目玉が五つも六つもあるような生物を一気に生み出した。当時、生物の生きる世界は水中に限られていたので、移動手段として、足の他にヒレが生まれた。これらも二本、十本、二十本と無節操に様々な実験を繰り返す。自分が神によって環境への適応力を試されているとも知らず、彼らはその体の機能を最大限に活用して生き延びようとする。ほとんどすべてのデザインは見るからに失敗作だが、それぞれの実験精神は時に魅力的だ。今、私たちがクリーニングしている化石は、その時代の主人公たちの姿なのだ。


午後になり、新しいサンプルトレイから岩石の選定を始めた。粒子の細かな泥岩は、運が良ければ保存状態の良い標本を含んでいるかもしれない。私は、直径四センチほどの平たい石を選んだ。表面に何も標本が出ていない、その小さな泥岩を丁寧に観察し、髪の毛ほどの石目の筋を見つけた。


石は石目に沿って割ると最も楽に、自然な割れ方をする。無理に割ると、中のもろい標本も一緒に粉々になってしまう。つまようじくらいの大きさの専用のクサビを石目に当てて、十字架のペンダントにも見える小さなハンマーでそっと叩いた瞬間、割れ目から虹色の光が反射したような気がした。無抵抗に割れた石の中には、一センチほどの生物の痕跡が三つ眠っていた。石の粒子は細かく揃っていて、生物の失われた体の輪郭が鮮やかに曲線として残っていた。


斜向かいの机で標本のスケッチをしている助手に声を掛けた。


「これ、蝶に見えませんか」


その水中生物は、どこか北極海の妖精、クリオネを思わせる形状で、胴の両側にとても大きなヒレをもっていた。姿は蝶が羽ばたいているようにも見える。


水中を飛ぶ蝶。


研究助手がルーペを持って来て、しげしげと蝶の標本を覗きこむ。特殊なライトを、角度を変えながら当てる。色んな向きから見ながら、丁寧な手付きで標本を回転させる。


「新種かもしれないね」


彼が私に向かって微笑んだのを初めて見た。




仕事を早めに切り上げ、部屋に戻るとすぐシャワーを浴びた。浴びながら結城ハルカの写真集を思い浮かべた。彼女はどうやって撮影したのだろう。自分と同じ背格好、同じ肌の色をしたアシスタントを立たせて、カメラを覗き、イメージをチェックする。それが固まると、今度は自らがカメラの前に立ち、アシスタントに無数のシャッターを切らせて、それをチェックする。もし、これを繰り返すとすれば、自分をモデルにした写真は何倍もの時間が掛かるだろう。


待ち合わせはゆうべのバーが入っている店の前にした。約束の時間に少し遅れて着くと、すっと車が近づいて来た。ウィンドウ越しに無言で会釈を交わし、きれいに片付けられた車の助手席に乗り込んだ。目的地がどこにあって、どのくらいかかるのか、聞く気はなかったが、昨夜の口ぶりではさほど遠くは無い様だった。


大きな川の横を走っているのか、道の左手には全く明かりが無い。私は鏡のようになったガラスに顔を向け、何も見えない景色を黙って眺めていた。


車を降りたのは、暗い通りだった。工業団地の一角らしいが、辺りには全く人の気配がない。夜だから誰もいないのか、すでに団地全体が打ち捨てられているのか。男は迷いなく、背の高い倉庫の裏へ向かった。男を追って裏手への角を曲がると、錆びた鉄の扉が引き開けられているところだった。カギはあらかじめ壊されていたらしい。誰がいつ壊したかはあえて聞かなかった。


中に入ると、傷んだコンクリートの床がむき出しの、がらんとした空間が広がっていた。ひび割れたコンクリートのすき間からは青々と背の低い草が生えている。見上げると天井は無い。とっくに傷んで落ちたのか、床に残骸もない。屋根の形をした骨組越しに満月が見えていた。倉庫の一角に見覚えのある塊があった。赤錆びに覆われた機械の残骸だ。写真集の中に、これにもたれて空を見上げているハルカのショットがあったはずだ。思ったより大きい。


「カメラは持ってきた?」


尋ねると男はバッグから一眼レフと三脚を取り出した。私は、小さな三脚がするすると足を伸ばしていくさまをぼんやり眺めていた。やがてセッティングが終わると、男は手持ち無沙汰になり、助けを求めるような目を私に向けた。


「私を撮ってよ」


男の動きに迷いがあった。


「いつも隠れて撮ってるんでしょ?」


男は目を落としている。何か言おうと口を開いたように見えたが、声は出なかった。

私は他人の視線を感じ分けられる。最初からこの男だと気づいていた。


「いいから撮って」


私は錆びた機械の横に立って言った。男はおずおずとレンズを向ける。広い空間にシャッター音が響く。はじめは遠慮がちに、でも次第に音の間隔は短くなっていき、時折、一秒間に何度も続けてシャッターを切り始めた。


全ての女はシャッター音に欲情する、と言っていたのは誰だったか。私は、カメラの前でポーズを取るでもなく、ひたすら自然である、という形を探していた。ハルカのように。


どうしていいか分らず、無意識に、ハルカが写真集の中で見せる仕草や表情をなぞろうとしている。私はリラックスしようと、少し歩き回ったり、深呼吸をしたりしてみた。カメラを意識の外に追い出そうとする。でも、少し離れた所から打ち鳴らされるシャッター音が気になってしまう。逆にレンズをにらんでみた。ただ、新たな緊張感を生み出しただけだ。多分、これでは違う。ハルカは撮影の現場で何を考えていたのだろう。私は写真集の作品を思い出そうとした。切り取られた瞬間の写真から、その時の現場を想像する。


この場所で、やはり同じように月明かりを浴びて、ハルカはここにいた。この、周囲を廃墟の壁に囲まれた空間の空気に体を染み込ませて、空間そのものを自分に同化させたに違いない。それは写真に体を写されている、という意識をどんどん消して行って、カメラに、ただ女を含んだ空気を染み込ませている、という感覚なのではないか。そうやって実体を極限まで透き通らせていくと、写真に写るのは、女の魂だけのはずだ。


私は、ハルカになる方法を見つけた気がした。魂を写すのに服は邪魔なだけ。だから彼女は、いつも透けるほど薄い衣装だったり、何も身に付けていない写真を好んで撮っていたんじゃないか?


私はごく自然に着ているものを外した。


名も知らない男は、私が服を脱ぎ始めると、途端におどおどし始めた。それに気付いてはいたが、私は構わず、服をきれいに生え揃った草の上に積み上げていった。一枚積むごとに、体が軽くなるのが分った。すっかり裸になると、次第にシャッターの音は途切れがちになり、私が真上の満月を見上げているうちに、ついには男が逃げるように出て行ってしまった。


月の青い光が屋根の無い工場の上から、まっすぐ差し込んできていた。私は全身にその光を浴びながら、すでになくなってしまったレンズを意識の目で睨んだ。どうしたら体の中の魂がリラックスして、その姿を現わすのか。私の魂はどんな色をしているのだろう。それをさぐりながら、幻のシャッターを切り続けた。ハルカのように。


わずかな風を背中に感じた。


風には心地よい虫の声が含まれていた。


体の周りを、いるはずの無いカンブリアの蝶が飛んでいるような気がした。


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