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カンブリアの蝶  作者: 舛田 久


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3/5

3

〈それって完全にストーカーじゃん。ケーサツに届けた方がいいよ〉


チャット仲間のTとのやりとりは、ほとんど毎日かかさない。


周りの人と関わったり話をするのは好きではないが、ネットを使ったチャットには不思議と抵抗が少ない。中でもTとはリズムが合うのか、わずらわしい共通点が少ないからなのか、会話が続く。誰かが盗撮写真を送りつけてくる話を初めてした。確かに普通ならちょっと危ない事件だろう。


「いいんだよ。あたしも同類なんだから」


〈でもP子って女でしょ?〉


「大丈夫だよ。あたしには分かる」


〈どういう風に?〉


「あいつはあたしに手は出せない。多分、他の誰にも手を触れられない男」


〈写真だけ?〉


「そう。写真だけ。手紙を書くことも出来ない筈」


〈なんでわかるの?〉


「なんでかな。でも、はっきりと想像できるんだ」


〈もし、想像と違ってたら怖くない?〉


「怖くないよ。想像と違ってたら面白いくらい」


〈ふーん。P子がいいならいいけど〉


Tのこういう淡泊な反応が楽でいい。いかにも自分のことのように心配しているのを強調されても、うっとうしいだけだ。


〈ところで、ハルカの事は何かわかった?〉


「情報は全然。でも今日、新しい写真集、見つけて買ったよ」


〈どんなの?〉


「モノクロで、森の中にいるの。結構いいよ」


〈顔は見える?〉


「ハルカの顔?」


〈そう〉


「もちろん見えるよ。でもいつも通り、写真全体の雰囲気が独特」


〈ほんとに顔、はっきり見える?〉


「見えるけど、どうして?」


見えるに決まってるじゃない。写ってるんだから。Tは時々、ハルカについて事細かに聞いてくる。もしかしたら、私の影響で、ハルカに興味を持ったのかもしれない。


〈夢は相変わらず見る?〉


「見るね」


〈どんな?〉


「父親が食べられてるの。かぶりついてる女の魔物が、全身血だらけで、でもとっても美しくって、顔を上げるとそれがあの女なの」


思い出して、一瞬、その世界に引き込まれる感覚が湧いた。


〈それは眠ってる時の夢?起きてる時の幻覚?〉


わからない。


私にとっては、夢も現実も幻覚も、同じようにふわふわして頼りない。たしかに時々、それらの境目が曖昧になる気がする。そんな時、他人の目には私がどう映っているのだろうか。なんだか、私の体が半透明に見えているのではないか、と思った。




気づくと月を見上げていた。


工事中の公園のベンチに座った記憶はないが、それはいつもの事だ。他人は夢遊病のように言うが、無意識のうちにちゃんと戸締りをして、気持ちのいい夜に散歩に出る習慣がある、というだけ。部屋にこもっているよりは、余程、自然なことに思える。目が乾いて痛い。また、マイクロ睡眠をとったらしい。


マイクロ睡眠というのは、渡り鳥なんかが飛びながら繰り返しとる、瞬間睡眠だ。彼らは夜、海の上を飛びながら時々ふいに羽ばたきをやめて、上空からまっさかさまに落下する。墜落する直前、体勢を立て直して再び舞い上がる。この短い間に眠っているという。


私もベッドに横になって眠るということができない。通勤電車の中でぼうっとしていると、いつの間にか駅に着く、横断歩道の信号待ちをしている間に夢を見る、目の前にあるはずのない景色を見る、そんな時、瞬きもせずに短い睡眠をとっている感覚がある。


不意に闇から小さく声が聞こえた。


「あんた、結城ハルカを探してるんだって?」


ベンチの後ろのほうに、作業服を着た初老の男がいた。私は別段、驚かない。相手の男の顔は良く見えない。


「どこにいるか、知ってるの?」


暗闇の中で、男は含み笑いしている気配があるが、思い違いかもしれない。


「おしえて」


男は、独り言のようにぼそぼそと、あの女には関わらない方がいいんだけどなあ、と言った。


「あの女が好きなら写真なり、本なり歌を集めればいいじゃねえか」

「あの人が好きな訳じゃない。その逆よ」

「じゃあ嫌いか」


嫌い、なのだろうか。


憎しみ。怖れ。私は一体、どういう感情を彼女に持っているのだろう?


また、含み笑いの気配がした。


「それが怖えんだよ、オジョウちゃん。ただ大好きとか、あこがれてるとか言うなら、そんだけのことだ。何にも心配はいらねえ。ただな、そうじゃなかった場合が問題よ」


闇が聞いた。


「あの女の居場所がわかったら、一体、どうするね」

「殺すわ」


私は迷わず答えた自分の声に驚いた。


「どうやって。刺すか?」


男の声は闇からつぶやく。


「呪い殺す」

「怖いな」

「そう?」

「ああ」


私は自分の会話をどこか高いところから聞いていた。耳で聞いていたのかどうかも疑わしい。


「ハルカは横浜にいる」


闇の中に男などいないのではないか。いつものように妄想の中で、自分自身と会話しているのではないか。それを確かめるのが嫌で、闇に背を向け歩き出した。




横浜の港にはもうずいぶん来ていない。そういえば、ハルカの小説に、港を舞台にした短編があった。それを読みながら最初に思い浮かべた景色は、横浜の港だった筈だ。その時、何故、横浜に来なかったのだろう。電車に乗ればわけない距離なのに。


駅からタクシーを使った事に、降りてから気づいた。夏の終わり。夜の山下公園には人影は少ない。海風が少し冷たい。わたしは公園の中を歩いて、岸壁のところから辺りを見渡した。周囲は暗い。どこからかかすかに音楽が聞こえてくる。私は、誘蛾灯に闇雲に向かう蛾のように、桟橋へ向かった。


確かに桟橋に向かったはずだった。海沿いの道を一旦それて、暗い路地に入る。そこを抜けると桟橋の入り口が見えるはずだ。公園からは客船が停泊しているのが見えていた。ハルカはあの船に乗っているのだろうか。霧の中にたたずむ船のデッキに、あの人が立っている姿は似合っているように思えた。


いつでもそうだ。彼女の存在は自然そのもの。周りと調和しながらも、圧倒的な存在感で他の全てを引き立て役にしてしまう。私が彼女に感じているのは嫉妬だろうか。脇役に回された全ての存在の怨念が、私を攻撃的な気持ちにさせるのか。ハルカに会いたい、とは彼女の力を消すためなのか。それとも私自身を飲み込んで、消して欲しいのか。もし、あの夢のように、あの女に食い殺されれば、私も彼女の一部になれるのだろうか。


足早に路地を抜けた。少し広い通りに出た途端、まぶしさに目がくらんだ。暗がりに目が慣れていたからだ。目の前にライトアップされたレンガ色の時計台がそびえていた。


おかしい。


この建物はこんなところには無い。確か、もっと西側の通りの筈だ。自分が思いのほか海から離れてしまったのを知り、路地を引き返した。どこか途中で別の道に入ってしまったのだろう。きっと左の方に分かれ道があるはずだ。そう思いながら歩いていくと、思った通り、さらに細い路地がみつかった。車一台がやっと通れる幅の道だが、通り抜けはできそうだ。街灯もなく暗い通路を歩く。路地の向こうはわずかに明るい。


嫌な感じがした。


通りに出ると、異国めいた形の青い塔が前をふさいだ。この建物は確かに海沿いにあると思ったが、こんな場所だっただろうか。おぼろげな記憶をたぐる。すぐ近くで水音がする。波が堤防に当たっているのだ。ともかく、海に沿って進んでいけば、桟橋に近づけるはずだ。自然と早足になった。暗い道などちっとも怖くなかったが、闇そのものに確かに恐怖を感じた。


邪念。


誰か、というより空間全体に悪意を感じる。道は両側を高い壁に囲まれ、見通しが利かない。まるで邪魔をするように行く先は左右に折れた。方向感覚が麻痺する。後ろを振り返るのが怖かった。何かがひたひたと追ってくる感覚がある。それが足音なら怖くはなかったが、迫ってくるのは圧倒的な気配だけだ。


いつの間にか小走りになっていた。桟橋へ向かおうとしていた事など忘れ、ただ安全なところへ逃げ出したかった。


安全なところ。それはどんなところなのか。明るいところか。暗いところか。人のいるところか。誰もいないところか。逃げながら、安全なところをイメージしようとしたが、思いつかなかった。自分はどこへ帰ればいいのか。漂う事に慣れてはいるが、それに不安を感じてしまったら、何を拠り所にして歩けばいいのか判らなくなった。


歩道の段差につまずいて転んだ。痛みはないが、足に力が入らない。後ろの暗がりに赤い目が光ってでもいたなら、かえって恐怖が和らぐだろう。でも、振り向いても、濃い闇が広がっているだけだ。闇そのものが濃い質感を持って迫ってくる。とにかく逃げなければ。ぎこちなく立ち上がると、目の前に建物の入口が口をあけていた。


石をはめ込んで作られた、古そうな建物。ドアもなく開いた入口からは、上へ向かう螺旋階段が見える。そこを上っていくと助かる、そう感じて階段を上り始めた。人一人が通れる、せまい階段だった。勾配も急で、カーブの角度もきつい。そのため、行く先が全く見えない。急な階段を駆け昇っていても、思いのほかつらくない。体が軽く感じる。ただ、ぐるぐると一定の方向に渦を巻きながら昇るためか、酔ったようなめまいがしてきた。壁は鈍く色とりどりに光っていて、もしかしたらステンドグラスのように向こう側の光を通しているのかもしれない。逃げている最中にもかかわらず、美しい、と思った。駆け上る足は、どんどん速くなった。


上から光を感じて目を向けた。出口だ。窓はないが、もうずいぶん高いところまで上がった感覚がある。灯台の上のようなところに出るのだろうか。階段を上る足は徐々に速くなっていき、最後は全速力の駆け足のようになって、明るくなっている出口へ一気に飛び出た。


思考が停止した。


見ているものを理解するのに時間がかかった。私は歩道に立っている。そして目の前には、また、あのレンガ色の時計台がそびえている。後ろを見ると、今までかけ上がってきた階段も建物も跡形もなく消えている。茫然と立ちすくむ私に、周囲から濃い闇が迫ってきた。闇に飲み込まれる瞬間、私は気を失った。


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