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電車を降り、住宅街の中の細い路地をいつものように歩きながら、私は何とはなしに、この数年の出来事を反芻していた。
どこに問題があるのだろう。
問題という程の事ではなく、せいぜい何かの歪みがあるのかもしれない。その歪みを強引に矯正してやりたいが、どうしてもうまくいかない。それとも、歪みを抱えたまま、他の要素を変化させる事で、バランスを取っていくべきなのだろうか。
その日は、分室に少し早めに着いた。研究室には来客がいるようだったので、入館許可証を胸に付けたまま、一般の展示スペースをぶらついた。
博物館の分室には決して広くはないが、メインの研究室のほかに一般の人が無料で入れる展示スペースがある。初心者の学習のためには効率のよい展示パターンが工夫されていて、生物の出現と多様化を、順を追って標本で解説している。化石標本は全般に地味だが、それでも数百万円で購入したものがいくつもある。平日の午前中から開館してはいるが、めったに見学者はいない。今日も誰もいない。
標本の保存のために設定された空調が、その存在を忘れるほど心地よい。
展示スペースで最も目立つのは、二階まで吹き抜けになった天井からつるされた、シャチの骨格標本だ。私は時々そうするように、標本を見上げながら手すりに寄り掛かった。八メートルにも達する大型海洋性哺乳類。まがまがしい牙を並べた、恐竜さながらの頭と、骨格を見ただけでもわかる、美しくダイナミックな流線形を描く体。その優美なアンバランスを私は気に入っている。大きな顎に自分が噛みしめられ、飲み込まれるさまを、酔ったように想像した。
バイトの内容は、研究用の化石のクリーニングだ。クリーニングとは、化石を含んだ岩石を割ったり削ったりしながら、観察しやすいように化石を石から浮き出させることだ。動物の歯の化石の場合などは、大抵それ自体が十分固い。そのため台座となっている石から完全に取り出すこともある。でも、私が担当するのは、歯のある動物が生まれるずっと前、古生代のはじめの小さな生物の化石だ。対象となるのは原始的な昆虫の先祖や植物、時にはバクテリアの痕跡。顕微鏡で見ながら作業することもある。そんな細かな化石の入った石は、薬品を使って周りの石灰岩を少しずつ溶かす事もある。化石まで溶かさないように慎重に液体を塗っては水で洗い、もろくした石灰岩をそっと崩す。
化石とは生物の骨細胞などの成分が、鉱物と入れ替わって、文字通り石に変化したものだ。
生物の形を留めた無機物。私は、こういう相反する概念の組み合わせが好きなのかもしれない。考えてみれば、博物館というのは、生命の力と歴史を多くの死体で表現した空間だ。それでも忌まわしい気がしないのは、死体そのものが中立な存在だからだろう。
博物館の資料室には、大量の未整理の標本が眠っている。公共の仕事特有の気の長さで、毎年、ほんの少しずつ整理がされ、分類されていく。化石のようにクリーニング作業が必要なものの分類には途方も無い時間が必要で、資料室の在庫は増える一方だ。
化石による新発見は、博物館の中で、数十年も前に発掘された標本の中からされる。研究自体が、直接ビジネスにつながらない上、研究者も自分の研究を仕上げるのが第一の目的であるため、民間企業のように効率よく作業するわけにはいかないのかもしれない。
私のほかには、研究助手の男性が一人、いつも黙々と作業をしている。ほとんど言葉を交わしたことはない。特に不潔ではないが、整えた形跡のない長髪に毎日同じような服装をして、年齢は不詳。私より少し年上に見える。彼のいない研究所を見たことが無い気がする。
私と同じ。
友人と一緒に過ごす、というような時間自体を楽しめないタイプだ。いつも彼は、早めの出前で夕食をはさんで作業を続け、八時頃、私は先に帰る。彼が帰る姿は一度も見たことはない。
先端の尖った器具を使い、化石を含む岩石に浅い傷を細かく並べるように付けていく。次にその傷に直角に交わるように新しい傷を付ける。その繰り返しで少しずつ石を削っていく。傷によって削れた分が、化石を閉じ込めた時間の積み重ねだ。静かにコリコリと石を引っ掻く音だけさせながら、時間が過ぎていく。刺激のある酸の匂いが鼻をついて、一瞬気が遠くなったが、これも私は嫌いではなかった。
夜の街は深海だ。あちこちに灯る、色とりどりの光に誘われていく人並みは、さながらチョウチンアンコウの罠に掛かる獲物のようだ。罠はいたるところにある。それが罠と知ってか知らずか、光に何かを求めて群れて流れを作る。自分の存在自体が街の罠になっている。
私は違う。
喧騒と光を避けてさまよう。もしかしたら、海底で獲物を探している海ザリガニかカブトガニに近い感覚かもしれない。別に罠を避けようという気はない。ただ、街の中の罠が、私にはそもそも魅力には思えない。明確に何かを探しているのではなく、強いて言えば、興味を引く引力を求めている感覚。何かを自分の意識が捕らえて欲しい。広げた意識のセンサーから伝わる波動を待つ。蜘蛛が糸に掛かる獲物を振動で知るように、私は歩きながら引力を待つ。
傍から見れば、目的も無く、暇もてあましているようだろう。時折、声を掛けてくる人がいるが、私は彼らの声を聞かない。意識の外からの声は、何を誘っているのか何を言っているのか、その時の私には全く分らない。元々、引力を、人から感じることはほとんど無い。きらびやかに着飾っても、どんなに官能的な演出を施しても、所詮それは評価を受けるために浅はかな計算からつくられた物であって、深い部分から醸し出される魅力ではない。そういう要素はどんどん意識から外していく。それは簡単な作業だ。すると、騒がしい夜の街もガランとした深い海底に見えてくる。
本物の引力は、ただそこに存在するだけで、その放出するエネルギーで他者を捕らえ、虜にしてしまう。そこに、浅はかな計算はない。ただ、絶対的な正解を感じさせる存在なのだ。
私のセンサーは、物の他に、景色や色、街の一角にひっそりとしているカプセルのような空間そのものにも反応するようだ。ビルの間の路地から見える、縦に細長く切り取られた、夕焼け空。その毒々しいほどの赤い色。路地の狭い空間。そんな場所には結界のような呪術めいた引力を感じる。しかもそれは、そこにその瞬間しか存在しない。二度と会えないその存在に気付かず通り過ぎることは、あまりに惜しい。そんな存在に気付いたときは、迷わず立ち止まってその空間に身を浸す。私の体の中のある部分がそんな存在をエネルギーとして食べているような感覚もある。もっとも、引力を何も感じない日がほとんどだ。
まただ。
また視線を感じた。視線は、私が歩く闇よりもっと暗いところから、細く刺さる。目を向けずに神経をそちらに向ける。はっきりとわかる。いつもの視線だ。
私は、目はあまりいい方ではないが、感覚を集中させて物を判断するのが得意だ。視線はいつも同じ。獲物を品定めするようにぶしつけで、しかも粘着質な視線。それでも私に警戒する気はない。ただ、いつものようにそれを無視して歩く。逃げも隠れもしない。とりたてて被害がないのだから、共存というわけだ。たとえ、こちらにレンズが向けられていても構わない。いろいろな習性の魚がいるように、そういう習性の人がいる、というだけだ。私は、別に気にしていない。むしろ、この男、間違いなく男だろう、彼に共感すら抱いている。
だって、私自身がストーカーなんだから。
駅に近い本屋に近づいていくと、引力を感じた。あたかも品物に呼ばれるような感覚を、私は時々受ける。本当は不思議な事でもなんでもなく、それは視野の隅に入った情報が、思いがけなく頭の中で別の情報と結びついて、興味に変わるだけなのかも知れない。その力に引かれるまま品物を探すと、いつもまず確実に、自分の欲しいものが見つかる。
やはり、本屋の入り口に積まれている本の中にあの女、結城ハルカの新しい小さな写真集を見つけた。
結城ハルカ。本名不明。小説、エッセイ、歌、写真集を出して評価をされている、いわゆるマルチ才女タレントだ。年齢・出身地不明。経歴不明。ネットで調べても驚くほど情報が少ない。姿や声の落ち着いた雰囲気から、三十代半ばをすぎていることは確かだ。
あれは、実在しない人物で、複数の人間が作品を作っていて、映像はすべてCGだ、などという説まで流れている。その中で唯一、正しそうな情報がある。彼女は北海道に住んでいた事があるらしい。
私は北海道で生まれた。小学校に上がるときに今の実家がある土地に越してきたので、彼女との接点は北海道時代にあると考えてもおかしくはない。漠然とそんな気がしていた。
接点。
なぜそう思うのか分からない。彼女を初めて知ったときから不思議な親しみを感じた。親しみ、とは言っても決して好意ではない。むしろ嫌悪感、憎しみに近い感情だ。なぜそう思うのかは、分からない。
彼女の撮る写真は二種類しかない。景色を撮ったもの。自分自身を撮ったもの。評判によると、どちらもシンプルで、技巧を凝らしたものではないという。私は、写真の事は良くわからないが、写真集を開くと、どのページにも、確かに目を引き付けて離さない力があるようにも思える。そして恐らく、三十代で世に出た遅咲きのタレントだが、着実にその地位は築きつつある。最近になると、セルフポートレートの発表が続いた。スタジオで撮ったものばかりではなく、野外の荒涼とした風景の中、ぽつんとたたずむ写真も多い。少なくない数のヌードも含まれていたが、彼女のどこか浮世離れした、神秘的な雰囲気を損なうことはなかった。
私は半ば脅迫観念のように、彼女の作品が出るたびに集めるようになっていた。そればかりではなく、彼女の作品に出てくる場所に行き、仕事場兼用の、自宅がある、と言われている街にも何度も行った。小説の出版社にはファンレターを装って何度も手紙を出した。しかも、自分は北海道時代の知り合いで、久しぶりに会って話がしたい、という内容のものだった。出版社には、彼女がどこの事務所に所属しているのか電話で問い合わせたが、分らない、と言われた。CDをレコーディングしたスタジオにも問い合わせたが、相手にされなかった。いくら調べても、彼女の仕事の予定を知ることは出来なかった。
彼女を嫌っていて、さらに決定的に嫌悪するだけの根拠を探すための行為と、自分では解釈しようとしている。でもそれはうまくいっていない。嫌おうとすればするほど、彼女の魅力に絡めとられていく。それに心の隅では気づいていた。
駅のホームに立った時には、大分、遅い時間になっていた。会社帰り、一杯飲んで帰る、騒がしい一団がいた。彼らは酔って、他人への迷惑が分らなくなっているのではない。酔っているのだから許される、という迷信を信じているのだ。
夜は嫌いだ。
世界が順々に眠りについていって、自分だけ取り残される。医者から処方された睡眠薬も最近ではほとんど飲んでいない。気持ち良くは寝られず、副作用で訳もなくイライラしてストレスがたまる。人間は太陽が昇る頃起きて、暗くなったら寝るのが自然だ、という人がいる。私は、疲れた時、横になる。それだけだ。それしかできない。
仕事帰りのサラリーマンに混じって、私鉄の座席に坐ると、心地よい振動で眠れそうな気がしてきて目を閉じた。
はるか太古、カンブリア時代の夢を、一瞬だけ見た気がする。




