第九話
夜の空気は、職場の匂いを連れて帰ってくる。
ドアを閉めた瞬間、外の音が薄い膜の向こうへ押し戻される。
鍵を回す金属音が短く鳴り、廊下の照明が白く点いた。
白すぎる光。
一日じゅう擦り切れた目には、少しだけ攻撃的だ。
靴を脱ぐ。揃えない。
つま先が内側を向いたまま、床に残る。
その角度を直す余裕がないわけじゃない。
ただ、直したところで何が変わるのか、分からなかった。
コートを脱いでハンガーに掛ける。
袖が片方だけ、ずるりと落ちる。
直そうとして伸ばした指が、途中で止まる。
迷って、引っ込める。
……直さない。
今の私には、「きちんとさせる理由」が見当たらなかった。
冷蔵庫を開けると、内側の光が顔に当たる。
ペットボトルを一本取り出し、キャップを回し、少しだけ飲む。
喉を通る冷たさは、胸の奥に届く前に消えた。
水は、身体の表面をなぞるだけで、すぐに去っていく。
――今の私みたいだ。
キッチンカウンターにボトルを置き、リビングへ戻る。
部屋は変わっていない。
数日前と同じ配置。
同じ生活の痕跡。
同じ、音のない静けさ。
テーブルの角に置きっぱなしの郵便物。
読みかけの雑誌。
絡まったままの充電コード。
すべてが、
私の中で何かがずれてしまったことなんて、知る由もない顔をしている。
ソファに腰を下ろす。
クッションが、ほんの少し遅れて沈んだ。
その遅れが、心の遅れに似ていて、
可笑しくもないのに、口元がわずかに引きつる。
テレビはつけない。
音楽も流さない。
音を入れたら、今日という一日をまた誤魔化せる。
誤魔化すことが習慣になったら、
私はこのまま、ずっと「追いつかない側」に留まってしまう気がした。
――数日が、過ぎていた。
あの日、駅前で声をかけられてから。
名刺を受け取った。
バッグに入れた。
それだけだ。
家に帰ってから、取り出した記憶はない。
興味がなかったわけじゃない。
正確には、興味を持つための“余白”がなかった。
夢とか、可能性とか、未来とか。
そういう言葉に触れる前に、
現実の皮膚感覚が、あまりにも生々しかった。
街を歩くと、視線を感じる。
すれ違う人の顔が、以前よりはっきりこちらを見る。
優しさでも、悪意でもない。
ただの反応。
光に虫が寄るみたいな、条件反射。
そこに意味を探そうとした瞬間、
意味のないものが、針の形を取る。
私は、その針に、数日間ずっと刺され続けていた。
刺されているのに、慣れたふりをして。
慣れたふりをしているうちに、
痛みが消えるわけじゃない。
痛みは、ただ深くなる。
表面から姿を消す代わりに、
骨の近くまで、静かに潜っていく。
ソファの背に頭を預ける。
天井に映る影が、薄く揺れている。
呼吸が、ようやく深くなる。
今日一日、どれだけ浅い息で過ごしていたのか。
ここに来て、やっと分かる。
床に、バッグが置かれている。
仕事用の、少し重たいバッグ。
私は、それを見る。
探すつもりはない。
中を開ける気もない。
ただ、視界に入れただけだ。
この部屋に、
「何が持ち帰られているのか」を、
確認しただけ。
その仕草は、
何かを失くしたあと、無意識にポケットを叩く癖と、よく似ていた。
何を忘れてきたのか。
どこで落としてきたのか。
まだ、分からない。
分からないまま、
胸の奥に、微かな違和感だけが残る。
それは焦りでも、不安でもない。
名前のつかない、空白。
私はまだ、
その空白に触れる勇気を持っていなかった。




