表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/23

第七話

それなのに、心だけが追いついていない。


追いついていないことが、みじめだった。

一年も経って、見られることにも、声をかけられることにも、ある程度は慣れたはずなのに、心だけが昔の場所に取り残されている。置き去りにされたまま、こちらを見上げている。


みじめなのに、帰る気にはなれない。


帰れば、鏡がある。

鏡は嘘をつかない。

嘘をつかないものを、今は見たくなかった。


私は歩く。

行き先はない。

それでも、足は止まらない。


止まったら、考えてしまう。

考えたら、きっと立てなくなる。


交差点の大きなモニターが光っている。

化粧品の広告。

均一な肌、白い歯、大きすぎる目。

笑顔は完璧で、人間というより記号に近い。


——あっち側。


思考が、勝手に言葉を拾う。

誰に教えられたわけでもないのに、すぐ浮かぶ言葉。


あっち側って、何だ。

テレビの中か。

広告の中か。

それとも、“選ばれる側”。


その言葉に触れただけで、喉がきゅっと縮む。


選ばれる。

選ばれたい。


——違う。


違う。たぶん、違う。

選ばれたいんじゃない。


選ばれなくても、平気な顔をしたい。

「どっちでもいい」と言える場所に、立ってみたい。


それが何なのか分からない。

分からないのに、欲しがっている。

欲しがっている自分が、嫌だった。


嫌なのに、やめられない。

やめられないこと自体が、まだ自分が“外側”にいる証みたいで。


人の流れが、ふっと薄くなる場所に出る。

歩道が少し広がり、街路樹の影が伸びている。

コンビニの白い明かりが、夜を切り取るみたいに浮いていた。


そこで、不意に声がかかる。


「すみません」


呼吸が、一瞬止まる。

頭より先に、体が反応する。


勧誘。

ナンパ。

アンケート。

宗教。


断る言葉が、舌の先に並ぶ。

順番まで、はっきり分かる。


でも。


声の質が違った。


軽くない。

上からでもない。

妙に丁寧で、少し固い。


顔だけ向ける。


男が立っていた。


年は、私と同じか少し上。

背は高くないが、姿勢がいい。

肩がまっすぐで、靴がきちんと磨かれている。


服は地味だ。

ジャケットもズボンも、仕事帰りの人間の色。


それなのに、街に溶けきっていない。

浮いているのは、色じゃない。

緊張感だ。


場違いなほどの、真面目さ。


目が合う。


この男の目は、さっきまでの通行人と違う。

刺さない。

撫でない。


ただ、確認している。


確認しているのに、慣れていない。


——新人。


理由もないのに、そう思った。

場数を踏んだ人間が持つ、余裕の空白がない。


「驚かせたら、すみません」


男は距離を詰めない。

人混みの中でも、私との間に一線を残す。

逃げ道を塞がない距離。


その距離感が、逆に胸に触れる。


今まで寄ってきた男は、距離を詰めることで勝った気になる人ばかりだった。

近づくことが、選ぶことだと思っている人たち。


「少しだけ、お話……いいですか」


“いいですか”が、ちゃんと疑問だった。

断られる可能性を、最初から計算に入れた声。


私は口を開く。


「無理です」

「急いでます」


言える。

言えるはずだ。


一年間、何度も言ってきた。

言って、やり過ごして、帰って、鏡を見て。


でも。


胸の奥が、変にざわつく。


断れば、私は“元の私”に戻る。

何も選ばず、何も変えず、何も起こらなかった顔で歩き続ける。


戻るのは、楽だ。

楽だけど——今日は戻りたくない。


理由は分からない。

分からないのに、戻りたくなかった。


「……何の話ですか」


自分でも驚くほど、声が落ち着いていた。

揺れていない。

揺れていないことが、少し怖い。


まるで、他人が私の口を使って喋っているみたいだった。


男は、一瞬だけ息を吸ってから言う。


「芸能の仕事をしてまして」


頭の中で、何かが弾けたわけじゃない。

期待も、拒絶も、まだ湧かない。


ただ。


大きすぎる言葉が、

音も立てずに、私の目の前に置かれた。


触れたら、何かが変わってしまうかもしれない言葉。


私はまだ、

それを拾うかどうかも、決めていない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ