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第六話

駅前の空気は、夕方になると舌触りが変わる。


昼の埃っぽさに、店の油、香水、排気ガスが重なり、甘さを帯びた刺激になって鼻の奥を突く。人が増え、音も増えているはずなのに、耳に届くそれらはどこか遠い。遠いのに、神経の柔らかい部分だけを、正確に刺してくる。


一年前も、同じ匂いを嗅いでいた。

でも、同じではない。


歩道のタイルが、やけに整って見える。

白線も、ガラスも、看板の光も。

世界全体が新品みたいで、私のほうが、後から置かれた部品みたいに浮いている。


私は人の流れに身を預けるように歩く。

紛れたい、という衝動はまだ残っている。

ただ、以前ほど必死ではない。

紛れられない日があることを、身体がもう知ってしまった。


すれ違った男が、ふと目を上げる。


ぶつからないための確認じゃない。

視線が一瞬、私の顔に留まり、わずかに遅れて逸れる。

逸れる瞬間、口角がほんの少しだけ上がった。


——今、見られた。


その認識が、遅れて胸に落ちる。

驚きはない。

もう何度も経験した。


次にすれ違う女は、私を上から下まで見ない。

逆だ。

顔だけを見る。


眉が、ほんのわずかに動く。

何かを測る人の目。

値踏みでも、嫉妬でもない、判断の前の視線。


それから、何もなかったみたいにスマホに視線を戻す。


見られている。

でも、それは一年前の「無視」とは違う。

存在を確認される視線だ。


その事実が、嬉しさに辿り着く前に、

条件反射みたいに恐怖を連れてくる。


私は反射的に肩をすくめる。

人とぶつからないためじゃない。

殴られないように、みたいな動き。


もう殴られることなんてないと、分かっている。

それでも、身体は覚えている。

世界は、突然こちらを殴ってくる場所だった、という記憶を。


——もう、いい。


頭の中ではそう命じる。

でも、足の運びも、視線の置き方も、完全には変わらない。

「前の私」は、まだ身体の奥に棲みついている。


ガラス張りのビルの外壁に、女が映る。


夕方の薄い光に輪郭を切り取られて、妙に整って見える。

知らない人みたいだ。

それが、自分だと分かるまでに、ほんの一拍遅れる。


私は横目でそれを確認し、すぐに視線を逸らした。


逸らす癖だけは、直らない。

一年経っても、直らない。


正面から見たら、現実になる。

現実になった瞬間、今の私は、どんな顔をすればいいのか分からない。


「可愛くなったね」

「綺麗になったね」


言われることは、もう珍しくない。

それでも、その言葉はいつも、私の手前で止まる。


もし言われたら、どうする。

笑う?

礼を言う?

——その前に、喉が詰まるかもしれない。


胸の奥が落ち着かない。

空腹じゃない。寒さでもない。

なのに、何かが欠けている。


足りない。

でも、何が足りないのか、もう分からない。


この感覚は、覚えがある。


誰かの期待に応え終えたあと、

役割を脱いだ瞬間にだけ現れる、空洞。


——私は、何が欲しいんだ。


答えは出ない。

一年考えても、出なかった。

それでも、欲しさだけは消えない。


もう一度、視線が刺さる。


今度は、駅の改札を出てきた高校生の集団。

笑いながら歩いていて、その中の一人が私に気づき、言葉を飲み込む。


目が合う。

彼女は笑うのを止める。


悪意じゃない。

驚きだ。


それから、友達の腕を引いて、小声で何かを言う。

私は聞こえないふりをして、視線を落とす。


——ほら。結局こうなる。


心が先に冷える。

上がりかけたものを、自分で引き下げる。

自分の扱いを、勝手に元に戻す。


でも今日は、戻らないものがある。


視線。

世界との距離。


私が下を向いても、視線は消えない。

消えないから、怖い。


怖いのに——

どこかで、ほんのわずかに、満ちる。


こんなふうに見られるのは、もう初めてじゃない。

でも、慣れたとも言えない。


「……気持ち悪い」


思わず、声が漏れる。

誰に向けたわけでもない、独り言の形をした吐き気。


自分の顔が、他人の目を引く。

その事実が、私の中の何かを、静かに削る。


“この顔”は、私の顔じゃない。

一年経っても、その感覚は消えない。


でも。


“私の顔”は、もう戻らない。


その事実だけが、

逃げ場を塞ぐみたいに、胸の奥に残っている。


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