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第五話

駅前の通りを外れると、空気の手触りがわずかに変わった。


人の数はまだ多い。それなのに、音だけが削がれていく。

怒鳴り声は消え、急ぐ足音も減り、代わりにガラスに反射した光だけが、やけに強く主張してくる。輪郭のはっきりしない街の中で、光だけが意味もなく鋭い。


家電量販店の入口は、相変わらず眩しすぎた。


夕方だろうと夜だろうと関係なく、白い光が容赦なく溢れてくる。逃げ込むつもりはなかった。ただ、まっすぐ家に帰るだけの力が、もう残っていなかった。


自動ドアが開く。

冷たい空調が、肌をなぞる。


外気と切り離された温度。どこに行っても同じ匂い、同じ明るさ、同じ音楽。感情が入り込む余地のない、均一な空間。人が多いのに、人間の気配が薄い。


私は目的もなく、エスカレーターに乗った。


上の階へ行くほど、生活の匂いが剥がれていく。

白物家電、パソコン、スマートフォン。

暮らしを支えるはずの物ばかりなのに、整然と並ぶほど、人の気配が消えていく。感情を必要としない物たちが、正しく、黙々と並んでいる。


テレビ売り場は、いつ来ても異様だった。


壁一面に並ぶ画面。

同じ番組が、ほんのわずかなズレを伴って流れている。

一人分の声が、何十にも分裂し、遅れて追いかけてくる。

現実が複製されて、薄くなっているみたいだった。


足が、自然と止まった。


理由はない。

ただ、映像の中の男の声が、不思議なほど静かだった。


派手な衣装も、作り込まれたステージもない。

白い背景。簡素な椅子。真正面から据えられたカメラ。


男は、落ち着いた色のシャツを着ていた。

痩せすぎてもいないし、鍛えすぎてもいない体つき。

流行を追っていない髪型。

年齢は三十代前半だろうか。


若さを誇示するでもなく、達観を装うでもない。

ただ、そこに座っている。


画面の端に、名前が表示される。


――相良 恒一。


どこかで聞いたことがある気がした。

有名なのかどうかも、よく分からない。

少なくとも、「今が旬です」と主張する顔ではなかった。


インタビュアーの声が入る。


「学生時代は、かなり辛い時期があったそうですね」


男は一瞬だけ視線を落とし、それから静かに頷いた。


「そうですね」


低く、整えられた声。

感情を煽らない、余計な装飾のない声。


「いじめられてました。

 理由は、今でもよく分かりません」


その言葉は、売り場に流れるには不釣り合いなほど軽かった。

軽く聞こえるのは、きっと何度も噛み砕かれてきた言葉だからだ。


「気づいたら、教室に居場所がなくなっていて。

 行かなくなって。

 最終的には、家からも出られなくなりました」


テレビの光が、男の頬に淡い影を落とす。

笑ってはいない。

でも、苦しそうでもない。


「引きこもってた期間は、長かったですね。

 二十代の前半くらいまで」


私は、無意識に息を止めていた。


引きこもり。

その言葉が、重さも軽さも伴わず、事実として置かれる。


「当時は、

 自分は世界に必要とされてないって、

 本気で思ってました」


その声が、胸の奥に沈む。


必要とされていない。

その感覚を、私は知っている。

形は違う。でも、匂いが似ている。


「今思えば、

 必要かどうかなんて、

 その時点で決まるものじゃなかったんですけど」


男は、わずかに肩をすくめた。


「当時の自分は、

 判断を間違えてました。

 世界は全部、

 ああいう場所だと思い込んでた」


判断を間違えていた。


その言い方が、引っかかった。

被害者だとは言わない。不幸だったとも言わない。

ただ、自分の認識と選択の話をしている。


「部屋にいる時間は、長かったです。

 外に出られなかったから、

 歌を作ってただけです」


救われたとも、音楽が支えだったとも言わない。


「前向きだったわけじゃないですよ。

 それしか、やることがなかった」


その正直さが、妙に現実的で、残酷だった。


私は、自分の手を見る。

指先が、少し冷えている。


――私は、どうだろう。


引きこもっていたわけじゃない。

学校にも、仕事にも行っていた。

恋人だと思っていた人も、いた。


それなのに。

あのカフェを出てからずっと、

世界の外側に押し出されたみたいな感覚が消えない。


「今でも、

 怖くなることはあります」


男は、はっきりと言った。


「全部が順調だと思えたことは、

 一度もないです」


その言葉に、奇妙な安心が混じる。


立ち直った人の声じゃない。

乗り越えた人の声でもない。

揺れながら、今も立っている声だ。


「ただ」


男は、ほんの少し間を置いた。


「過去の自分を、

 可哀想だとは思わなくなりました」


その一文が、私の中で音を立てて何かを動かした。


可哀想。


私は、あのカフェを出てからずっと、

自分を“可哀想な人間”として扱っていた。


騙された。

利用された。

顔がよくないからだ。


そうやって、自分を守ろうとしていた。


でも、この人は。

もっと深い場所にいたはずなのに、

自分を憐れんでいない。


「過去は、消えませんからね」


男は淡々と言う。


「でも、

 どう語るかは、

 自分で決められる」


私は、画面から目を離せなくなっていた。


そのとき、隣で誰かが小さく息を吐いた。


「……この人」


低く、落ち着いた声。


気づくと、私のすぐ横に男が立っていた。

三十代半ばくらい。

スーツでも私服でもない、仕事帰りの中間みたいな格好。


彼は画面を見たまま、言う。


「自分の過去を、

 不幸だったって言ってないでしょ」


私を見ることもなく、ただ映像に向かって。


「それだけで、

 結構すごいと思う」


慰めでも、励ましでもない。

評価ですらない。


ただの観察。


それなのに、今の私には強すぎた。


私は、もう一度テレビを見る。


男の表情は変わらない。

穏やかで、淡々としている。


――この人は、

私よりも辛い経験をしたかもしれない。


でも、それ以上に。


この人は、

自分の人生を、

他人に説明させていない。


その事実が、胸に残る。


私は、まだ何も決めない。

何かを変えようとも思わない。


ただ、

世界が、ほんの少しだけ広がった気がした。


恋愛だけが、

価値を測る場所じゃない。


顔だけが、

人生を決める規則じゃない。


そう言い切る強さはない。

でも、

そうかもしれないと思える余白が、生まれた。


テレビ売り場の白い光の中で、

私は、わずかに息がしやすくなっていた。

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