表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/19

第三話

 男が、ようやく本題を口にした。


「お前さ」


 呼びかけは軽い。

 軽いのに、逃げ場を塞ぐ位置取りだけは正確だった。


「彼女じゃないんだよ」


 言い切り。


 否定じゃない。

 訂正だ。

 間違って配置された物を、正しい棚に戻すみたいな口調。


 ——それでも、ここではまだ接続は切らない。

 男は、わざと間を置かない。

 情を挟ませないために、切り口だけを変える。


「“枠”が違う」


 枠。


 女が、空中に見えない線を引く仕草をする。

 境界を示す動き。

 こちら側と、向こう側を分ける線。


 指は細く、動きは滑らかで、爪の形まで整っている。

 何もかもが過不足なく整っていて、それが余計に腹立たしい。


「こういうのってさ、あるの」


 女は、楽しそうに言った。

 誰かに教え諭すときの声。


「本命。彼女。遊び……それ以外」


 “それ以外”。


 余白に押し込む言い方。

 名前を与えないことで、価値を削る。


 男が、笑いながら続ける。


「分かりやすく言うと——」


 そこで一瞬だけ、視線が外に流れる。

 ガラスの向こうを通り過ぎる学生の集団。

 高い笑い声。無防備な背中。


 世界は何も変わっていない。

 その“いつも通り”が、今の私だけを置き去りにする。


 男は視線を戻し、何でもないことのように言った。


「財布」


 音が消えた。


 周囲の話し声も、BGMも、ミルクを泡立てる蒸気音も、すべてが薄く遠ざかる。

 残るのは、その単語だけだった。


 財布。


 財布。

 財布。


 言葉が、私の中で何度も反響する。

 意味は分かる。分かるのに、身体がそれを受け取るまでに時間がかかる。


 男は続ける。

 仕様を説明するみたいな口調で。


「飯代。プレゼント。交通費」


 一つずつ、指を折る。


「呼べば来る。文句言わない。顔色変えない」


 指が止まる。


「……便利だろ」


 便利。


 女が、小さく頷いた。


「うん、便利」


 悪意を隠そうともしない。

 わざと、日常会話みたいな温度で言う。

 それがいちばん残酷だと、分かっている言い方。


 私は息を吸う。


 カフェの空気は甘い。

 シロップとコーヒー豆の匂いが混ざって、肺の奥まで入り込む。


 吐くとき、喉がきゅっと狭くなる。

 泣くわけじゃない。まだ。

 泣くより先に、脳が必死に状況を整理しようとしてしまう。


 財布。


 ——過去の断片が、勝手につながっていく。


 急な呼び出し。

 待ち合わせに遅れても謝らない。

 人前で手を繋がれない。

 写真を撮らない。

 クリスマス前だけ機嫌がいい。

「今日は奢って」と言われたときの、あの笑い方。


 全部、財布の扱いだ。


 そう思った瞬間、胸の奥が熱を持つ。

 怒りなのか、恥なのか、名前のつかない熱。


 女が、首を傾げる。


「ねえ」


 声が、やけに優しい。


「薄々、分かってたでしょ?」


 分かってた。

 分かってた気がする。

 分かってた“つもり”だった。


 でも。


 “分かってた”と言ってしまったら、

 この二年間の自分を、全部自分で踏み潰すことになる。


 ……いや。

 もう、踏み潰れているのかもしれない。


 男が、飽きたように言う。


「お前さ、変に期待してただろ」


 期待。


 期待って、なんだ。


 私はただ、

 隣に立っていい場所が欲しかっただけだ。


 女が笑う。


「期待っていうかさ」


 一拍置いて、言い直す。


「思い込み」


 そして、決定打みたいに続ける。


「その顔で、“彼女枠”だって思えたの、逆に才能だと思う」


 才能。


 男が、得意げに重ねる。


「顔は才能だろ」


 女が、当然みたいに頷く。


「うん。努力じゃ埋まらない」


 言葉が、体の中に溜まっていく。

 吐き出せない。飲み込めない。


 胃の奥に、硬い塊ができて、

 それがじわじわと膨らんでいく。


 私は何か言おうとする。

 口を開く。


 でも、言葉が出ない。


「ひどい」

「やめて」

「そんなつもりじゃない」


 全部、ここでは弱い。

 弱い言葉は、口にした瞬間に自分を小さくする。


 男は、私の沈黙を“正解”として処理する顔をした。


「ほら」


 指先でテーブルを叩く。

 トン。トン。


「そうやって黙るとこ」


 リズムが、私の心臓とずれていく。


「都合いいんだよ」


 女が、少しだけ身を乗り出す。

 香水の匂いが届く。甘くて、冷たい匂い。


「ねえ、言っとくけど」


 笑っているのに、目だけが笑っていない。


「私、悪いことしてる気、ほんとにないから」


 それが、いちばん怖い。

 正しさの顔をした悪意。


「だってさ」


 肩をすくめる。


「現実じゃん?」


 現実。


 その言葉が、

 私の逃げ場を、静かに塞いだ

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ