第二十三話
心臓がうるさい。
胸の内側で、規則を忘れたみたいに鳴っている。
それなのに、足は動かない。
逃げないし、前にも出ない。床に縫い留められたみたいに、ただそこにある。
視線を落とすと、木目の一本一本がやけにくっきり見えた。
光を反射するワックスの跡。
踏みしめられてきた場所と、そうじゃない場所の差。
顔を上げなくても分かる。
輪の中心で、空気が動いている。
若い声が弾んで、すぐ引っ込む。
軽い笑いが起きて、次の瞬間には消える。
その切り替えの速さが、年齢そのものみたいだった。
――ここにいるだけで、遅れる。
そう思った瞬間、身体が強張る。
遅れを取り戻そうとする気持ちが、逆に怖さを呼ぶ。
焦って動けば浮く。
浮けば視線が刺さる。
刺さったら身体が固まる。
固まったら、もっと遅れる。
悪い循環の入口で、私は息だけを整えようとしていた。
そのとき。
「……ね、いったん、身体ほぐそっか」
柔らかい声が、空気の底に落ちた。
みおだ。
庇うわけでも、制止するわけでもない。
ただ、場を別の箱に移すみたいな声。
輪の中心から出る言葉は、それだけで流れを変える。
「真壁さん来る前に、ストレッチしておこ。どうせ秒で怒られるし」
さらっと笑う。
“怒られる”を恐怖にしない言い方。
経験の量が、そのまま声の温度になっている。
「え、マジ? 今日、真壁さん?」
ユイが即座に反応する。
声は軽いけど、トーンが落ちた。
本当に怖い相手の名前が出たときだけ、ふざけ方が変わる。
「うん。だから今のうち。はい、円、もうちょい詰めて」
みおが両手を軽く振る。
合図は小さい。
それなのに、全員が迷わず動く。
ひまりが「了解っ」と短く返して床に座る。
さやは無言で座り、足先を正確に揃える。
りなは一瞬だけ迷ってから、みおの動きをなぞる。
ユイは雑に座ったふりをしながら、足首だけはもう回している。
――準備が、早い。
その速さが、年齢の差として胸に刺さる。
私も膝を曲げた瞬間、股関節がぎし、と鳴った気がした。
痛みじゃない。
ただ、固い。
市役所の椅子。
窓口の立ち仕事。
冷えた廊下。
“正しく立つ”ことはしてきた。
でも、“自由に動く”ことは、してこなかった身体。
床に座るだけで、遅れが出る。
みおが靴を脱ぎながら、私を見る。
視線は軽い。
でも外さない。
「透子さん、足、冷えてる?」
唐突で、でも的確な質問。
「……少し」
答えた声が掠れた。
喉が乾いていることに、今さら気づく。
「じゃ、足首から。痛いところは無理しないで。真壁さん、“無理して痛めるのが一番迷惑”って言うから」
笑いながら、逃げ道を作る言葉。
優しい。
でも、その優しさは「やれるよね?」に変わるのも早い。
みおが足を伸ばし、つま先を上下させる。
全員がそれに合わせて動き出す。
床に手をつく音。
関節が鳴る音。
吐く息が揃う。
鏡の中では、同じ動きをしているはずなのに、私だけが少し遅い。
その“少し”が、致命的になりそうで怖い。
「うわ、今日ヤバ。硬っ」
ユイが笑う。
その笑いは自分に向いている。
自分を笑える余裕がある。
私は笑えない。
太ももの裏が引きつって、呼吸が浅くなる。
「……透子さん、大丈夫ですか」
りなの声は弱い。
でも、逃げの声じゃない。
同じ怖さを分け合おうとする声だ。
「……うん。大丈夫」
嘘にならないよう、背筋を伸ばす。
伸ばすと、今度は肩が固い。
――固いところだらけだ。
「さや、首回しお願い」
「ん」
さやが短く返事をして首を回す。
角度が正確すぎて、鏡の中の動きが揃う。
みおはその隙に、私にだけ小さく言った。
「最初、みんな同じだよ。息、止めないで」
同じ。
その言葉が、ほんの少しだけ胸を緩める。
でも私は知っている。
“同じ”でも、基礎の量が違う。
「てかさ」
ユイがあくび混じりに言う。
「二十四って……体力、大丈夫?」
笑いの形をした現実。
私は言葉を探さない。
ここで欲しいのは、言葉じゃない。
みおが即座に空気を取る。
「ユイ、それ言うならちゃんと伸ばして」
軽く。
でも、主導権は渡さない。
笑いが起きる。
その中で、私は小さく口角を上げた。
笑った“形”を作る。
――居方だ。
みおが手を叩く。
「はい、股関節。左右、いくよー」
全員が倒れる。
私も倒れる。
抵抗に負けそうになり、息が止まりかける。
そのとき、背中に気配が触れた。
朝霧だ。
声はない。
でも、逃げていない背中がそこにある。
私は息を吐いて、もう一度倒す。
痛い一歩手前で止めて、そこからほんの少し伸ばす。
――私は、準備をしている。
そして。
ドアの音はしなかった。
それなのに、空気が変わった。
軽さが引く。
ざわつきが沈む。
みおの表情が一瞬で整う。
ユイの背中が勝手に伸びる。
りなが息を吸い直し、さやが視線を上げ、ひまりが冗談を飲み込む。
私だけが、一拍遅れる。
鏡の中に、女が映っている。
立ち方が違う。
空気の使い方が違う。
「はーい。みんな注目」
張りのある声。
「今日のレッスンを始めるわよ」
来た。
準備はした。
でも、準備をした程度じゃ足りない現実が――
今、目の前に立っている。




