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第二十一話

 スタジオのドアを押した瞬間――いや、押したというより、吸い込まれた瞬間、肺が違う空気を覚えた。


 冷たいとか、暖かいとかじゃない。軽い。

 湿り気の少ない、汗と整髪料と床ワックスの匂いが混ざった、運動のための空気。市役所の庁舎みたいに「無臭で正しい」空気じゃない。ここは最初から、人が“出すもの”を前提にしている。


 床は木目のフロア。

 足裏が、ほんの少し沈む。沈むくせに返りが速い。踏み込んだ力を、そのまま跳ね返してくる。

 誤魔化しが効かない床だ、と直感で分かった。


 鏡が正面の壁一面に広がっている。

 鏡の中の私が、こちらを先に見ていた。

 整った輪郭。落ち着かない目。

 “スタジオに入ってきた女”としては成立しているのに、“自分”としてはまだ、どこにも着地していない。


 その隣に、朝霧がいる。


 スーツではない。動きやすい服に着替えているのに、それでも彼の身体の使い方は、まだ「仕事の型」を引きずっている。立つ位置が一歩だけ外側だ。中心に出ない。けれど、置いていく距離も取らない。

 私が一歩踏み出せば、その半歩後ろに、影みたいについてくる。


 顔は穏やかだ。

 でも目が、落ち着いていない。落ち着いていないのに、逸らさない。

 初めての場所の緊張を、誰より自分が飲み込んでいるのが分かる。私に見せないために。


 その気遣いが、ありがたいのに、怖い。

 私の“逃げ道”を、優しさで塞いでくるから。


 ――視線が、来た。


 スタジオの中央付近にいた五人が、一斉にこちらを見た。

 数は五。多くない。

 なのに、圧がある。若さの圧。体温の圧。まだ終わっていない未来の圧。


 その中で、視線の置き方が決定的に違う子がひとりいた。


 真ん中に立っている。

 意識していないのが厄介だ。意識していないから、“中心がそこにある”と全員が納得してしまう。


 桐谷みお。

 朝霧が事前に言っていた名前が、顔に重なる。

 背は高くない。スタイルも、現実の範囲だ。

 でも、背筋と顎の角度が、最初から“見られる”角度で出来ている。身体が、視線を受ける準備を常にしている。


 みおが一歩前に出た。

 たったそれだけで、場の空気が整列する。誰も号令を出していないのに、空気が“彼女の周り”を中心に円を描く。


「はじめまして」


 声は柔らかい。通る。

 通るけれど、張り上げていない。

 張り上げなくても届く場所にいる人の声。


「桐谷みおです。……センター、やらせてもらってます」


 “やらせてもらってます”が上手い。

 自分の力だと言わない。奪っているとも言わない。与えられた形にして、反感の芽を先に摘む。

 その丁寧さが、逆に怖い。丁寧さは、武器にもなる。


 彼女は笑う。

 笑顔の幅がちょうどいい。親しみを置いて、踏み込まない。

 その絶妙さが、訓練の痕跡だと分かってしまう。


「今日は新しく来てくれた人がいるって聞いて。……よろしくね」


 “よろしく”が軽いのに、軽くない。

 私を受け入れる言葉でありながら、“ここは私たちの場所”という輪郭も同時に残す。


 私の隣で、朝霧が小さく息を吐いた。

 緊張の吐息だ。声にはしない。言葉にも、しない。

 でも、その吐息が私の耳に届くくらいの距離にいる。


 ――逃げるな、という合図みたいに。


 みおは手を叩かない。音で支配しない。視線だけで場を動かす。


「じゃ、簡単に自己紹介しよっか」


 “簡単に”が救いに見える。

 でも、こういうときの“簡単”は一番難しい。短い時間で“使える形”を提示しなきゃいけないから。


 鏡の前に、自然と円ができる。


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