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第二十話

 駅を出た瞬間、胸の奥で何かがひっくり返った。


 空気そのものは変わっていない。冷たくもないし、特別に澄んでもいない。

 それなのに、身体の内側だけが「戻れない場所」に足を踏み入れた感覚を先に理解していた。


 夕方にはまだ早い時間帯。

 それでも街は、すでに帰る準備を終えている。歩く人の速度が揃っていて、視線は前にしか向いていない。誰もが今日の終わりを知っている顔だ。


 私は、知らない。


 今日が、どこで終わるのか。


 隣を歩く朝霧は、いつも通り半歩横にいる。

 寄り添う距離じゃない。離れてもいない。

 「一緒にいる」というより、「並んでいる」に近い。


 その距離が、今はありがたい。


 沈黙が続く。

 会話がないことが、救いになる沈黙だ。


 ビルの影に入ったとき、朝霧が口を開いた。


「……本当に」


 声は低く、仕事の音だった。


「市役所、やめたんですね」


 その一言で、胸の奥が沈む。

 後悔ではない。

 “選択”が、言葉として確定した感覚だ。


「はい」


 声は思ったより安定していた。

 震えなかったことに、自分で驚く。


 朝霧は歩調を変えない。


「逃げ道を」


 一拍。


「ちゃんと、消してきたんだなって思いました」


 責められているわけじゃない。

 称賛でもない。


 ただ、事実を確認されただけだ。


 それが一番、効く。


 私は、無意識に拳を握っていた。

 力を入れているつもりはないのに、指先がこわばっている。


「……残しておくと」


 言葉を選びながら、口を開く。


「途中で、自分に負ける気がしたので」


 逃げ道があると、人は逃げる。

 それを“慎重”とか“現実的”って言い換えて。


 朝霧が、ほんの一瞬だけこちらを見る。


 驚きはない。

 否定もない。


「二十四歳で、それを選ぶのは」


 一拍。


「正直、簡単じゃないです」


「はい」


 即答だった。


 簡単じゃない。

 だから来た。


 スタジオの看板が見えてくる。

 派手さはない。音楽スタジオ、と控えめな文字。ガラス張りの向こうで、人影が動いている。


 中から、断片的な音が漏れてくる。


 カウント。

 足が床を叩く音。

 息が弾む気配。


 ——もう、始まっている。


 私の知らないところで、世界は動いている。


 胸の奥が、ざわつく。


 遅い。

 年齢も、体力も、経験も。


 比較が、勝手に始まる。


 朝霧が言った。


「今日のレッスン、十代後半が中心です」


 知っていた。

 資料で、数字として見ていた。


 でも、今は違う。

 数字じゃなく、“差”として胸に来る。


「吸収も早いし、体も動く」


 事実だけを並べる声。


「正直、最初は相当きついです」


 相当。


 その言葉が、胸の奥で反響する。


 それでも。


「……はい」


 否定はしない。

 否定できる材料が、どこにもない。


 ガラス扉の前で足が止まる。

 自分の姿が、薄く映る。


 整った輪郭。

 落ち着かない目。


 完成しているようで、何も出来ていない顔。


 でも。


 だからこそ。


「未完成のまま、立つって決めたので」


 声は小さい。

 でも、逃げていない。


 朝霧は、それ以上何も言わなかった。

 代わりに、ドアノブに手をかける。


「じゃあ」


 一拍。


「始めましょう」


 ドアが開いた瞬間、空気がぶつかってくる。


 汗の匂い。

 若い体温。

 遠慮のない音。


 ここでは、未完成であることが隠されない。


 私は、一歩踏み出す。


 逃げ道を消した重さが、まだ足元にある。

 でもそれは、私を止めるための重さじゃない。


 立ち続けるために、必要な重さだった

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