第十九話
事務所の自動扉を抜けた瞬間、空気が切り替わった。
冷たい。
けれど、それは拒絶じゃない。
さっきまで肺の奥に溜まっていた、判断と数字と沈黙の匂いが、一気に外へ押し出される。
夕方の街は、もう帰る顔をしている。
足取りは速く、視線は前。
誰もが今日を終わらせる準備が整った身体で歩いている。
――私だけが、終わりを決められないまま。
人の流れに混じりながら、ほんの少し浮いている感覚があった。
隣を歩く朝霧は、相変わらず半歩前だ。
近づきすぎない。離れすぎない。
守ろうともしないし、突き放しもしない。
あの距離は、最初からずっと変わらない。
歩道のタイルが、靴底に規則正しく返ってくる。
その音が、面談で交わされた言葉を、少しずつ現実に戻していく。
条件。
期間。
結果が出なければ終わる、という当たり前の話。
理解していたはずなのに、胸の奥ではまだ、重たいものが揺れている。
駅前の人混みが見え始めたところで、朝霧が口を開いた。
「……面談のときの話なんですけど」
仕事の声だった。
でも、遮断するような硬さはない。
「市役所、辞めるって言いましたよね」
その一言で、胸の奥が一段沈む。
後悔じゃない。
ただ、逃げ道が言葉として形を持っただけだ。
「……言いました」
思ったより、声は落ち着いていた。
自分でも少し驚く。
「本気ですか」
短い問い。
確認だ。試すでも、責めるでもない。
私は、答えを探すふりをしなかった。
探し始めたら、逃げる理由がいくらでも見つかる。
「……本気になる前提です」
口にした瞬間、胸の奥で何かが定まる。
完成していないからこそ、嘘じゃない言葉だった。
朝霧はすぐに評価を返さない。
歩調を崩さず、視線を前に置いたまま、次を待つ。
「市役所って、安定してますよね」
事実だ。
だから、言葉に棘はない。
「二十四歳で、そこを手放すのって……怖くないですか」
怖い。
それは、否定しようのない感覚だった。
庁舎の光景が脳裏をよぎる。
均一な照明。整えられた言葉。
間違えないことを前提にした毎日。
悪い場所じゃない。
でも、あそこでは私は――
完成したふりをした未完成のまま、年を重ねていく。
「怖いです」
声に、余計な飾りは乗らない。
「でも……戻ったら、多分、私は“何も始めなかった人”になります」
言い切った瞬間、喉の奥が少し痛む。
それでも、言葉は折れなかった。
朝霧が、小さく息を吐く。
「……それで、ですか」
本題に入る合図。
「歌手でも、モデルでも、声の仕事でも、演じる仕事でもなく」
一拍。
「アイドルを選んだ理由」
私は歩調を緩めない。
止まったら、言葉が崩れる気がした。
「未完成だからです」
迷いはなかった。
それは言い訳じゃない。選択だ。
朝霧の視線が、横から私を捉える。
続きを促す、静かな目。
「アイドルって……」
私は、視線を前に置いたまま続ける。
「最初から“出来ていること”を、求められない仕事だと思ってます」
駅前の大型ビジョンが目に入る。
磨かれた笑顔。整えられた輪郭。
あれは完成品だ。
でも、私が立ちたい場所は、そこじゃない。
「未完成であることが前提で、それを隠さず晒す仕事」
胸の奥に、熱が灯る。
衝動じゃない。覚悟に近い熱だ。
「技術が足りないことも、揺れていることも、失敗することも……全部、途中経過として見られる」
朝霧は口を挟まない。
その沈黙が、いちばん誠実だった。
「歌が上手いか、演技が出来るか、スタイルがいいか」
一つずつ、言葉を置く。
「それより先に、“立ち続けられるか”を見られる」
耐久。
逃げないこと。消えないこと。
評価が出なくても、そこにいること。
騙された夜。
消えてしまいたかった朝。
鏡を見られなかった日々。
それでも私は、今、ここを歩いている。
「失敗しても、それ込みで見られる」
声が、少しだけ強くなる。
「誤魔化さなくていい。完成したふりをしなくていい」
朝霧が、静かに言った。
「……相当きついですよ、それ」
「はい」
即答だった。
「きついの、分かってます」
駅の入り口が近づく。
人の流れが、さらに速くなる。
「でも」
私は、ほんの少しだけ顔を上げる。
「いまの私が、嘘をつかずに立てるのは、そこだけだと思いました」
未完成だから、逃げるんじゃない。
未完成だから、晒す。
朝霧はしばらく黙り、やがて短く言った。
「……なるほど」
軽くない言葉だった。
改札の前で、朝霧が足を止める。
「途中で逃げたら、一番きついですよ」
私は、きちんと頷く。
「だから、逃げない前提で来ました」
怖い。
それでも、立っている。
改札の向こうで、電車の音が鳴る。
人の流れは止まらない。
私は、その中へ踏み出す。
未完成のまま――
立ち続けるために。
背中に、さっきまでの部屋の重さが残っている。
でも、それはもう、私を押し戻す重さじゃなかった。
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