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第十八話

 その丁寧さが、いちばん怖い。


 「事情があるのは分かる」

 そう言われた瞬間、胸の奥に張り付いていた緊張が、ほんのわずかに緩む。

 分かってもらえた気がして。

 許された気がして。

 許されたと錯覚したからこそ、言葉が喉の先までせり上がってくる。


 ――でも、それは落とし穴だ。


 許されたと思った瞬間、人は一番脆い方向へ落ちる。

 自分を守る言葉を探し始める。

 事情を並べたくなる。

 説明したくなる。

 分かってほしくなる。


 それをやったら、終わる。


 私は口を閉じる。

 閉じたまま、呼吸だけを整える。

 息を吸う。

 吐く。

 吐くとき、喉がわずかに鳴る。

 その音が相手に届いていないか、それだけが気になる。


 神崎は、机の上のペットボトルを指で弾いた。


 キャップの縁が、こつ、と鳴る。

 軽い音だ。

 ほとんど力は入っていない。

 それなのに、その音が鳴った瞬間、部屋の空気だけが一段沈む。

 重力が、急に増したみたいに。


「――ただ」


 神崎は、そこで声の温度を落とした。


 怒っているわけじゃない。

 叱っているわけでもない。

 余分な熱を抜くだけ。

 熱が抜けた言葉は、形を持つ。

 形を持った言葉は、刃になる。


「“直せる”って分かった瞬間に、人生まで直せると思う子がいる」


 直せる。

 人生まで。


 言い方がはっきりしている。

 だから分かりやすい。

 分かりやすいから、逃げ場がない。

 準備ができていないのに、言葉のほうが先に胸の内側へ踏み込んでくる。


「そういう子は、ここではすぐ折れる」


 折れる。


 たった三音なのに、胸の奥で何かがぎしりと鳴る。

 紙が折れる音じゃない。

 もっと硬いものが、無理に曲げられる音だ。


 黒崎が、書類の端を揃え直す。

 紙が擦れる、乾いた音。

 感情を一切含まない音。


 ――ああ。

 これが、この場所の基準音なんだ。


 言いたくなる。


 私はそうじゃない。

 直したから強くなったなんて思ってない。

 人生が直るなんて思ってない。


 言葉は次々に浮かぶ。

 でも、口には出さない。

 出した瞬間、それが「言い訳」になると分かっているからだ。


 言い訳だと思われるのが怖いんじゃない。

 言い訳を口にした自分を、これ以上見たくない。


 神崎は続ける。

 淡々と。

 誰かを裁く声じゃない。

 ただ、事実を並べる声だ。


「顔を変えたら、次に何が起きる?」


 問いかけるように言って、答えを待たない。


「周りの目が変わる。

 チャンスが増える。

 声をかけられる」


 机の上に、言葉が一つずつ置かれていく。


「――そこまではいい」


 そこまではいい。


 その一言で、空気がわずかに緩む。

 神崎が初めて「否定しない」側に立ったように聞こえた。

 救いに聞こえた。

 だからこそ、余計に危ない。


「でもな」


 一拍。


 空調の風が、ブラインドをわずかに揺らす。

 光の筋が、机の端でほんの少しだけずれる。

 目に見えるほどの変化じゃない。

 それでも、「時間が進んだ」という感覚だけが、確かに残る。


「その先で、“これだけやったんだから報われるはず”って顔をする子がいる」


 報われるはず。


 私は、その言葉を心の中で反復する。

 報われるはず。

 報われるはず。


 どこかで、私もそれを握りしめてここまで来た。

 痛みを我慢した。

 時間を使った。

 お金を使った。

 だから――と。


「報われなかったとき、何に怒ると思う?」


 神崎が、こちらを見る。


 試す目じゃない。

 問い詰める目でもない。

 ただ、現実を見る目だ。


「世界に怒る。

 周りに怒る。

 運に怒る」


 淡々と並べられる順番。


「最後に、自分に怒る」


 喉の奥が、ひゅっと縮む。

 それはもう、私が何度も辿った順番だった。

 騙された夜から、眠れなかった朝から、鏡を見るたびに。


「その怒りは、才能じゃ埋まらない。

 根性でも埋まらない」


 神崎は、そこで言葉を切る。

 余計な説明をしない。

 だから、言葉が残る。


「だから俺は、“作ったもの”に期待しない」


 期待しない。

 言い切り。


「作った顔が悪いって言ってるわけじゃない」


 前置き。

 でも、免罪符にはならない。

 刃を、握り直す動作だ。


「悪いのは、“これで通るだろ”って顔をすることだ」


 盾、という言葉は使わない。

 それでも意味は同じだ。


 私は、何も言わない。


 言えばいい言葉はいくつもある。

 私はそんなつもりじゃない、とか。

 逃げてきたわけじゃない、とか。


 でも、そのどれもが、ここでは「自分を守る言葉」になる。

 神崎がいちばん嫌う形だ。


「ここはな、宮坂さん」


 名前を呼ばれる。

 この顔で。


「“かわいそう”で残れる場所じゃない」


 かわいそう。


 胸の奥で、反射的に否定が走る。

 私はかわいそうじゃない。

 かわいそうでいたくない。

 かわいそうだと思われたくない。


「“頑張ってる”だけでも残れない」


 頑張ってる。

 私は頑張った。

 でも、それを口にした瞬間、ここでは価値を失う。


「残るのは、結果が出るやつだけ」


 言葉が置かれ、空気が張り付く。


 張り付いたまま、誰も動かない。

 深刻になりすぎる、その一歩手前。


 ――そこで。


「社長〜」


 間延びした声が、ぽん、と落ちた。


 朝霧だった。


 肘をつくわけでもない。

 姿勢を正すわけでもない。

 ただ、思い出したみたいに口を開く。


「それ、例え話ですよね」


 軽い。

 本当に軽い。


「今の、“いじれる”とか“作る”とか」


 語尾がふわっとしている。

 深刻さを持ち込まないための話し方だ。


「極端なケースの話」


 極端、という言葉で距離を取る。


「ここでやる話じゃないやつ」


 神崎が、ゆっくりと朝霧を見る。

 怒らない。

 驚かない。


「……ああ」


 短く息を吐く。


「そうだな」


 それだけ。


 たった一言で、空気が戻る。

 深刻さが、一段下がる。


 神崎は、話を畳むように言った。


「話が逸れたな」


 逸れた、と自分で言うことで、矛先を戻す。


「要は、“何ができるか”だ」


 黒崎が、すぐに書類を机の中央へ滑らせる。

 紙が擦れる音が、現実を呼び戻す。


「さあ、条件を確認しようか」


 そこから先は、数字と期限と現実の話。


 私は、まだ何も言っていない。

 それでも、確かなことが一つある。


 ――誰も私を指していない。

 ――でも、耐えているのは、私だ。


 その事実が、胸の奥で、静かに鳴っていた

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