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第十七話

「何しに来た?」


 もう一度、言葉が胸の中で反響する。


 私は喉の奥で、一度だけ唾を飲み込んだ。ぬるい。緊張していると、唾液まで温度を失う。


「……挑戦、したくて」


 自分の声が、壁に吸われていく。返ってこない。返ってこないから、言葉が自分の中で転がり続ける。挑戦。挑戦。薄い。薄いのに、今の私にはそれしかない。


 黒崎が、書類の角を揃え直す。紙が擦れる。乾いた音が、私の言葉を現実へ引き戻す。


「挑戦、ね」


 黒崎の声は淡々としている。淡々としているから、刺さる。感情が混じらない言葉は逃げ道をくれない。挑戦は、どこにでもある言葉だと一瞬で暴かれる。


 神崎は、少しだけ口角を上げた。


「挑戦って言葉は、嫌いじゃない」


 嫌いじゃない。好きでもない。距離を測る言い方だ。


「でもさ」


 一拍。


 その一拍のあいだに、空調の風がブラインドをわずかに揺らした。光の筋が、机の縁をほんの少しだけずれる。目に見えるほどの変化ではないのに、なぜかそれが「時間が進んだ」ことを知らせる合図に思えた。


「挑戦したい、だけだと、ここでは弱い」


 神崎の声は軽い。軽いのに、言葉が沈む。笑っているわけでも、脅しているわけでもない。言い切りが、ただの事実としてそこに置かれる。


「何に挑戦したいの。芸能? アイドル? 演技? 歌?」


 並べられた単語が、どれも眩しく聞こえる。眩しいのに、手が届かない。眩しさは距離の証明だ。近くにある光なら眩しくない。


 私は、言えるはずの言葉を探す。いま「はい、アイドルです」と言ったところで、その言葉はここで受け取られない気がする。受け取られないのは、言葉が間違っているからではない。言葉の後ろに、私が立っていないからだ。


 立っていない。私はまだ、自分の足で立っていない。


 黒崎の視線が、私の顔をなぞる。なぞるだけで止まらない。美術館で絵の値札を見て、次の絵へ移るみたいな視線。痛いのに、怒れない。怒れるほど私は強くない。


 神崎が、机の上のペットボトルに指を触れた。キャップに触れただけで、薄い音が鳴る。軽い音。その軽さが、部屋の緊張に馴染まない。


「俺さ、最近ちょっと思うんだよね」


 急に雑談みたいな口調になる。油断しそうになる。油断するのが怖いのに、油断したくなる。油断は救いだ。救いは、落とし穴にもなる。


「夢の世界って言うけど、夢ってさ。だいたい“都合よく”作り直せないんだよ」


 作り直せない、という言葉に胸が反応する。反応したのに、私は何も言わない。言えないではなく、言わない。まだ、その言葉を自分に結びつけたくない。


 神崎は続ける。


「いまって、なんでも直せるじゃん」


 黒崎が小さく鼻で息を抜く。肯定でも否定でもない。聞き慣れた話の合図。


「加工もあるし、フィルターもあるし、プロフィールも盛れる。履歴だって、切った貼ったができる。——顔も」


 そこで、神崎はほんの少しだけ言葉を濁す。濁すというより、間を置く。間を置くことで、重さが乗る。


「……いじれるだろ」


 いじれる。


 その言葉は直接的じゃない。名指しでもない。誰かの過去を暴く匂いもしない。だからこそ、私の中だけで爆発する。


 私は息を吸う。吸った息が喉に引っかかる。抜けない。抜けないのに、部屋の空気は普通のまま流れていく。普通のまま流れていくことが、余計に怖い。


 神崎は、こちらを見たまま言う。


「俺、ああいうの、好きじゃないんだよね」


 好きじゃない。


 その言葉が、ようやく“感情”として響く。嫌いだと断言しないのは、仕事だからだ。仕事の人間が感情を見せるときは、釘を打つときだ。


「いじったこと自体が悪いって話じゃない。事情があるのは分かる。事情で生きてる人間、世の中にいくらでもいるし」


 言い訳みたいに聞こえるほど丁寧な前置き。でもその丁寧さが、本題の刃を研ぐ。

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