第十六話
奥の扉が、音もなく開いた。
蝶番が鳴かない。
何度も開閉され、油が差され、音を出さないことに慣れきった扉だ。事務所の奥にある扉は、だいたいこういう顔をしている。秘密のためではない。余計な感情を挟まないためだ。
扉の向こうから、足音が現れる。
規則正しいわけではない。
急いでもいない。
ただ、止まらない。
歩幅が一定で、床を確かめない。ここを歩くたびに「今日は大丈夫だろうか」と考えなくていい人間の足音だった。
「おいおい」
声が落ちる。
落ち方が軽い。
「朝から空気が尖ってるな」
私は、遅れて振り向いた。
スーツの男が立っている。
色も形も、どこにでもある。だが、しわの寄り方が違う。身体の動きに合わせてできたしわだ。会議室と現場を行き来してきた人間の服。
この人は、ここで“決める”人だ。
黒崎が、書類を抱え直す。
「尖ってるんじゃなくて、削ってるだけです」
「削らないと残らないからな」
男は笑う。
笑いは浅い。感情が沈殿していない。人を扱うことに慣れきった笑いだ。
「黒崎が言うことは、だいたい正しい」
そう言ってから、男の視線がこちらに向く。
黒崎の視線は刃物だった。
この男の視線は、秤だ。
軽いか、重いか。
使えるか、落ちるか。
私は、何も言われていないのに、背筋を伸ばす。
その動きが、自分でも情けない。
「……で」
男が言う。
言葉の前に、間がある。
「君が、朝霧が連れてきた人?」
連れてきた。
その言い方が、胸の奥を押す。
私は頷く。
声を出すより先に、首が動いた。ここで声を出すのが、なぜか怖かった。
男は小さく「ふうん」と言う。
評価は、まだない。
黒崎が間を詰める。
「顔だけで拾ってきた、って話です」
拾う。
拾われる。
言葉が、骨に当たる。
男は、気にした様子もなく肩をすくめた。
「拾える顔なら、拾えばいい」
軽い。
驚くほど軽い。
「顔は武器だろ。武器があるなら、まず持たせる。握れなきゃ捨てる。握れるなら使う。それだけだ」
正論だった。
冷たい正論は、間違っていないぶんだけ逃げ場がない。
黒崎は黙る。
その沈黙が、この言葉を何度も飲み込んできた証拠だった。
そのとき。
「……神崎さん」
朝霧の声が、空気に割り込む。
柔らかい声だ。
だが、退いていない。
「今日の話なんですが——」
「朝霧」
男が、被せる。
声は低くも高くもない。
感情が乗っていないのが、いちばん怖い。
「君は、まだ喋らなくていい」
朝霧の言葉が、途中で止まる。
止められた、というより、切られた。
朝霧は一瞬、口を開きかけて、閉じる。
その間に、何かを飲み込む。
「……ですが」
「いい」
神崎は、短く言った。
声を荒げない。
理由も説明しない。
それだけで、場の序列が確定する。
「今は、本人の時間だ」
本人。
その言葉が、私に落ちる。
守る言葉じゃない。突き放す言葉だ。
朝霧は黙る。
黙らされたまま、席を外さない。
ここで黙ることも仕事だと理解している顔。
神崎が、私を見る。
「名前、聞いてなかったな」
名前。
喉の奥が、きしむ。
私は、名前を何度も使ってきた。
そのたびに、何も変わらなかった。
騙された夜、
その男は私の名前を呼ばなかった。
呼ばなくてもいい存在だと思われていた。
ここで名乗るということは、
それを全部引き受けたまま、立つということだ。
一瞬、逃げたい衝動が走る。
名乗らなければ、まだ誰でもない。
でも、それは——
また、選ばないという選択だ。
私は息を吸う。
浅い呼吸。
逃げないための呼吸。
「……宮坂です」
声は低い。
自分でも驚くほど、揺れていない。
神崎が頷く。
「下の名前は?」
確認。
促しじゃない。
私は、迷う。
この名前は、呼ばれると弱くなる。
それでも。
「……透子です」
言った瞬間、胸の奥で何かが剥がれる。
痛い。
でも、立っている。
黒崎の視線が変わる。
値踏みから、耐久を見る目へ。
神崎が、初めて少しだけ深く笑った。
「宮坂透子。悪くない」
褒め言葉じゃない。
でも、否定でもない。
「俺は神崎。社長やってる」
それだけ。
「立ち話もなんだ。中で話そう」
背を向ける。
場が、自然と従う。
廊下を進む。
積まれた段ボール。
剥がれかけたガムテープ。
手書きの文字——返却、至急、現金。
夢の裏側。
ここは、夢を売るために現実を削る場所だ。
面談室に入る。
簡素な机。
硬い椅子。
私は座る。
朝霧が隣に座る。
黙ったまま。
だが、逃げていない。
黒崎は壁際。
神崎は正面。
逃げ場はない。
それでも、私はここにいる。
——バカな男に騙された。
でも、それで終わりじゃない。
本当の自分は、
誰かに守られた場所じゃなく、
黙らされても立っていられる場所にしかいない。
神崎が、指を組む。
「じゃあ、宮坂さん」
名前を呼ばれる。
この顔で。
「何しに来た?」
私は、もう目を逸らさなかった。




