第十五話
振り向くと、青年が立っていた。
背は高すぎず、低すぎない。
スーツは整っているが、身体に完全には馴染んでいない。新品ではない。それでも、まだ借り物の匂いが残っている。持ち主の輪郭より先に、仕事の型が着られている服だ。
「……お待たせしました」
声は柔らかい。
だが、甘さはない。
人を迎え入れるための声であって、迎え入れすぎないための抑制がある。
私は立ち上がる。
ほんの一拍、遅れた。
遅れを取り戻そうとして、動きが一瞬ぎこちなくなる。
そのぎこちなさを、自分で意識してしまった瞬間、余計に目立つ気がして、唇を噛む。
「いえ……」
それ以上の言葉が、出てこない。
朝霧は軽く頭を下げる。
深すぎない角度。
深く下げないことで、丁寧さと立場を同時に保つ下げ方だ。
「こちらです」
そう言って、彼は半歩前を歩き出す。
半歩。
近すぎず、遠すぎない。
その距離に、彼の性格がそのまま現れている。
守ろうとしない。
突き放しもしない。
柔らかさは、優柔不断の結果ではなく、選択だ。
そのとき、背後で椅子が鳴った。
「ねえ、朝霧」
声が飛ぶ。
軽い。
軽いが、刃の重さを知っている音だ。
振り返ると、受付にいた女が立っている。
書類の束を片手に、体重を片脚に預けた姿勢。
力は抜けているのに、視線は一切逃げない。
「また“顔だけ”で拾ってきたの?」
言葉が、空気を切る。
切られたのは、私だ。
胃の奥が縮む。
反射で背筋を伸ばす。
伸ばしたところで何も変わらないと、もう分かっているのに。
「……そういうつもりでは」
朝霧が言いかける。
言いかけたところで、女の声が被さる。
「前の子、一か月もたなかったでしょ」
一か月。
期間が具体的なだけで、現実が一気に近づく。
それは失敗ではない。
消耗だ。
現場にとっての損失だ。
朝霧は口を閉じる。
閉じたというより、閉ざされた。
女の視線が、今度は私に向く。
もう遠慮はない。
顔を、じっくり見る。
見られているというより、測られている。
「……こういう顔、だいたい早いのよ」
早い。
言い切られた瞬間、胸の奥で何かが落ちる。
まだ何もしていない。
それでも、結果だけが先に置かれる。
「苦労が顔に出てない。
自分が何者か、まだ分かってない顔」
言葉が、静かに刺さる。
音は立たない。
音が立たないから、抜けない。
私は、何も言えない。
反論が浮かばないわけじゃない。
浮かんだ反論が、どれも弱いと分かってしまうからだ。
——知らないくせに。
そう思う。
同時に、
——でも、そうかもしれない。
とも思ってしまう。
その揺れが、私の口を閉ざす。
女は続ける。
「人生舐め切った顔立ちってあるでしょ。
綺麗なのに、中身がまだ空っぽのやつ」
空っぽ。
その言葉に、反射で喉が鳴る。
否定したい。
けれど、胸の奥で何かが、わずかに肯定してしまう。
私は、ここに来るまで、
自分が何者かを決めないまま生きてきた。
決めないことを、慎重さだと思っていた。
でもそれは、選ばないことの言い換えだったのかもしれない。
朝霧が、息を吸う。
「……話を聞くだけでも、と思いました」
それだけだ。
否定しない。
庇わない。
ただ、切らない。
女は肩をすくめる。
「“話を聞くだけ”はタダ。でも、その先はタダじゃない。
うちは大手じゃないの。夢見て来られると困る」
笑いが混じる。
笑いが混じるほど、本音だ。
私は、立っている。
逃げたい。
でも、足が動かない。
動かない理由が、勇気なのか、恐怖なのか、分からない。
分からないまま、ここに立っている。
そのとき、奥の扉が開く音がした。
空気が、はっきりと変わる。
誰かが割って入ってくる。
それだけで、この場の重さが、別の形に組み替えられる。
私は、その変化を感じ取りながら、
まだ自分の名前を言えないまま、
そこに立っていた。
ここで、判断される前の、
最後の一拍として。




