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第十四話

扉を押した瞬間、空気が切り替わった。


冷房の冷たさとは違う。

もっと乾いた、用途の決まった空気だ。

消臭剤と紙と、人の体温が混ざり、長く同じ場所に留まり続けた匂い。

循環しているはずなのに、感情だけが沈殿している。


吸い込んだ途端、喉の奥が小さく鳴る。

音を立てるつもりはなかったが、身体のほうが先に反応した。

ここでは、意識よりも肉体の判断が速い。


床は磨かれている。

光を反射しすぎない程度に、きちんと手が入っている。

新しくはない。

だが、放置もされていない。


古さを受け入れながら、最低限の秩序だけを保っている床。

時間も、人も、ここでは均等に摩耗していく。


正面に、受付カウンターがある。

高すぎず、低すぎず。

立つ側と座る側の立場が、最初から曖昧にならない高さだ。

ここでは、上下は礼儀ではなく構造で決まる。


カウンターの向こうに、女がいる。


最初に目に入ったのは顔じゃない。

キーボードの上を滑る指だった。

爪は短く、色はない。

装飾を削ぎ落とした指は、速度と正確さだけを残している。


視線は画面に固定され、こちらを迎え入れる準備はない。

歓迎されないことが、むしろ正しい。


私は一歩、前に出る。


足音は床に吸われ、響かない。

響かない音は、この場所にとって都合がいい。

大きな音は、余計な存在感になる。


「……すみません」


声を出した瞬間、空間が反応した。

反響ではない。吸収だ。


言葉が壁や床に飲み込まれ、戻ってこない。

ここでは、発した言葉に返答が保証されていない。

身体が先に、その仕組みを理解する。


女が顔を上げる。


視線が、私の顔に触れる。

ほんの一瞬。呼吸一回分にも満たない時間。


それでも十分だった。


輪郭をなぞり、目元で止まり、口元に落ち、すぐ外れる。

表情は動かない。

驚きも、評価も、嫌悪もない。


ただ確認する。

確認が終われば、関心は残らない。


「はい」


声は低く、乾いている。

愛想はないが、無礼でもない。

ここで必要なのは感情じゃない。処理だ。


私はバッグから名刺を取り出す。

紙の端が指に当たる。

わずかな痛みが、今は助けになる。

自分がここに「いる」と、身体が納得する。


「朝霧さんと……約束をしていて」


言い切る前に、名刺を差し出す。

差し出すというより、置く。

相手の手に預けるほどの関係性は、まだない。


女は名刺を受け取り、視線を落とす。

印字された文字を、必要な分だけ拾う。


「朝霧、ですね」


名字だけ。

敬称はつかない。

ここでの距離が、その呼び方に滲む。


女は内線に手を伸ばす。

迷いがない。

番号を押す指が速い。

この動作を、何度も繰り返してきた指だ。


「朝霧。……来てる。……うん、“例の”」


――例の。


名前でも、肩書きでもない。

その曖昧さが、私を一瞬で「案件」に変える。


個人ではなく、処理対象。

処理される側は、理由を選べない。


受話器の向こうで何か返事があったらしい。

女は短く「はい」と言い、切る。


切ったあと、わずかに息を吐く。

そこには微かな笑いが混じる。

楽しさじゃない。

疲労と皮肉が混ざったときに、無意識に出る癖だ。


「お掛けになって、お待ちください」


「……はい」


ソファに腰を下ろす。

硬い。沈まない。


沈まない椅子は、逃がしてくれない。

姿勢が、そのまま露出する。

背筋を伸ばしても、誤魔化しは効かない。


誤魔化しのきかない場所ほど、人は自分の弱さを意識する。


女はもうこちらを見ない。

キーボードの音が再開される。

一定のリズム。

感情の介在しない音。


私は、その音に背中を預けられない。


待っているあいだ、視線の置き場に困る。

壁のポスターを見る。


地方イベント。

小劇場。

ラジオ。


どれも派手じゃない。

紙の角が、わずかに浮いている。

貼り替えられていないのではない。

貼り替える余裕がないのだと分かる。


――ここは、余裕のない場所だ。


その事実が、少しだけ私を落ち着かせる。

余裕のない場所は、嘘をつかない。

嘘をつかない代わりに、優しくもしない。


足音が近づく。


その音は、さきほどの自分の足音よりも重く、

床に吸われず、確かに存在を主張していた。


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