第十三話
怖いのは、失敗することじゃない。
失敗は、最初から私の側に置かれている。
怖いのは、測られることだ。
人としてではなく、
使えるか、使えないか。
残すか、外すか。
そういう視線に晒されること。
その目を正面から受け止められるほど、私は強くない。
強くないまま、ここまで来てしまった。
決めた瞬間から、胃の奥が縮む。
縮んだまま、元に戻らない。
その違和感が、呼吸のたびに意識に引っかかる。
電車が揺れる。
胸の奥で、固まっていた記憶が擦れ、音もなく崩れる。
浮かぶのは、望んでいない言葉ばかりだ。
――財布。
――あんな顔と本気で付き合うわけがない。
――便利だっただけ。
思い出すな、と命じるほど、輪郭がはっきりする。
はっきりするほど、腹の底が熱を帯びる。
怒りと悔しさが混ざり、行き場を失って、目の奥に滲む。
私は顔を背け、窓の外を見る。
景色は流れていく。
置いていかれているのは、風景じゃなく、自分のほうだ。
ハンカチで目頭を押さえる。
強くは押さえない。
強くすれば、境界が崩れることを、もう知っている。
涙は見せない。
弱いと思われたくないから、だけじゃない。
今の私が泣けば、それは「隙」になる。
隙は、誰かを呼び寄せる。
踏み込まれるのは、もう十分だ。
駅に着く。
降りる。
人の波に押し流される。
通路に並ぶ広告が、視界の端で光る。
揃いすぎた歯、整えられた輪郭。
均一な笑顔。
見ない。
比較が始まると、足が止まる。
止まれば、今日が無効になる。
地上に出る。
排気の匂いが重い。
ビルの隙間を抜ける風が、首元を冷やす。
歩道の速度は速い。
迷っている人間は、自然に後ろへ回される。
私は歩く。
置いていかれないためじゃない。
止まれないからだ。
バッグの中に指が伸びる。
名刺の感触を確かめる。
そこにある。
それだけで、背筋がわずかに戻る。
ビルの前で立ち止まる。
住所を確認する。
ガラス扉は厚く、冷たい光を返している。
中は見える。
見えるから、想像が先に走る。
透明な境界は厄介だ。
越える前から、心が試される。
私は一度、息を吐く。
吐いた息が、白くなった気がした。
扉に手をかける。
冷たい。
その冷たさが、今はありがたい。
感情を一拍、止めてくれる。
扉を押す。
ここは、好意が用意された場所じゃない。
笑顔で迎えられる前提もない。
判断される場所だ。
分かっている。
それでも、足は前へ出る。
名刺を取り出し、握り直す。
紙が湿っている。
涙じゃない。汗だ。
昨夜の静けさが、ふと胸をよぎる。
通話が切れたあとに残った、あの重さ。
熱はもうない。
代わりに、抜けない感覚が残っている。
痛みというほど鋭くはない。
でも、消えもしない。
それが、私をここに立たせている。
受付の向こうで、人の気配が動く。
視線が、こちらに定まる。
息を吸う。
声を出す準備をする。
声を出すのは、いつだって怖い。
でも、出さなければ、私はまた背景になる。
背景に戻らないために、ここまで来た。
だから。
「……すみません」
小さく、頼りない声。
それでも、確かに私のものだ。
その瞬間、
さっきまでの滲みが、別の形に変わる。
悔しさでも、恥でもない。
――始まってしまう、という感覚。
甘さはない。
保証もない。
けれど、逃げ道ももう必要ない。
名前を言うために、もう一度息を吸う。
中の空気は、外と違う。
乾いていて、整っている。
磨かれた床。
落ち着いた照明。
事務的な配置。
香りじゃない。
紙と消臭と、人の体温が混ざった、働く場所の匂い。
一歩、足を踏み入れた瞬間、
喉の奥が、かすかに鳴った。
――ここからだ。
そう思っただけで、
胸の奥が、静かに揺れていた。




