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第十二話

朝の光は、やはり優しくない。


カーテンの隙間から差し込む白さは、夜を追い払うというより、剥ぎ取る。眠りの上に残っていた感情の膜を、無遠慮な指で引き剥がしていくみたいだ。目覚ましより先に目が覚めたのは、眠りが浅かったせいだろう。身体は横になっていたはずなのに、芯だけがずっと起きていたような感覚が残っている。


喉が渇く。

舌の奥に、昨日の涙の名残がある。塩気というより、乾きに近い。


起き上がって、足を床につける。

冷たい。


その冷たさが、ぼやけた思考を無理やり一列に並べる。目が覚める、というよりは、現実に引き戻される感覚だ。逃げ場がないと知った身体が、先に折り合いをつけにいく。


洗面所の照明をつける。

鏡は、もうそこにいる。


私は正面から見る前に、歯ブラシを口に入れた。泡が増える。口をゆすぐ。水を吐く。蛇口の音がやけに大きい。部屋が静かだからじゃない。私の耳が、まだ夜の感度を引きずっている。


顔を上げる。


鏡の中の女は、相変わらず私を知らない顔をしている。目の位置は同じはずなのに、視線の当たり方が違う。こちらを見ているのに、焦点が合っていない。輪郭は整っているのに、居場所がない。部屋に置き忘れた新品の家具みたいに、「ある」だけで、まだ空間と関係を結べていない。


昨夜のことが、断片で戻ってくる。

通話が切れたあとの静けさ。

胸の奥の、固く結ばれていたものが、音もなくほどけていく感覚。

涙が、理由を聞かずに落ちたこと。


――挑戦したい。


あの言葉は、寝て起きたら消える種類の熱じゃなかった。けれど朝になれば、確実に薄まる。薄まるぶん、形だけが残る。夜みたいに勢いで抱きしめられない。朝はいつも、感情の輪郭だけを冷静に差し出してくる。


メイクをする。


下地を伸ばす指が、一瞬止まった。

肌の張りが違う。

粉の乗りが違う。

アイラインを引く角度が、いつもの手癖と噛み合わない。


失敗しているわけじゃない。ただ、身体がまだこの顔を“自分のもの”として扱えていない。慣れたはずの動作が、ひとつひとつ確認を要求してくる。その小さな抵抗が、静かに神経を削る。


服を選ぶ。


派手にはしない。

でも、地味すぎると顔だけが浮く。

浮くのが怖い。

怖いから、無難を取る。


無難を選んだ自分に、少し腹が立つ。


その腹立ちに気づいた瞬間、妙に可笑しくなった。腹が立つということは、まだ「どうでもいい」に落ちていないということだ。どうでもいい、になったら終わりだ。今日は、まだ終わらせたくない。


テーブルの上に、名刺がある。

昨夜、置いたままの白い紙。

黒い文字。


紙一枚のくせに、視界の端でずっと主張している。そこに書かれた社名と名前が、今日という一日を、見えない糸で引っ張っている。


バッグに入れる。

折らないように、内ポケットへ差し込む。


それだけの動作なのに、指先が強張る。

大事にしているわけじゃない。

壊したくないとも、まだ思えていない。

ただ、ここで雑に扱ったら、何かが戻れなくなる気がした。


玄関を出て、鍵をかける。


外の空気は冷えていて、洗剤と排気の匂いが混ざっている。建物の隙間を風が抜け、髪が頬に触れる。肌に触れる情報が増えるほど、緊張が立ち上がる。緊張はいつも、思考より先に皮膚から来る。


駅まで歩く。


足裏が地面を叩く音が、いつもよりはっきり聞こえる。歩道のタイルが、やけに几帳面に並んでいる。整いすぎているものは、ときどき人を落ち着かなくさせる。そこから外れた瞬間が、強調されるからだ。


改札を抜ける。

人の流れに飲まれる。


制服、スーツ、私服。誰もが「自分の用事」という透明な壁をまとっている。私はその壁を持っていない気がして、肩がすくむ。すくんだまま、それでも進む。進まない選択肢は、もうない。


階段を上がる途中、ガラスに映る自分が視界の端に引っかかる。


知らない輪郭。

整いすぎた線。

その線の中に、収まりきらない目。


今の私は、きれいな器だけが先にできて、中身が追いついていない。器の外側ばかりが注目されて、中の空白が、ますます広がっていく。


電車に揺られ、市役所前で降りる。


庁舎は、相変わらず同じ顔で立っている。

低く、広く、感情を持たない建物。

誰に対しても公平で、誰の味方でもない。


中に入ると、空気が変わる。

音が丸くなる。

声が低くなる。


私は職員用の通路を歩き、ロッカーで名札を付ける。その瞬間、身体が勝手に切り替わる。背筋、歩幅、表情。ここでは正しさが最優先だ。感情は、仕事の外に置いてくる。


窓口に立つ。

申請書を受け取る。

日付を確認する。

声を出す。


「こちらでよろしいですね」


自分の声が、安定している。

安定しすぎている。


来庁者が頷く。

それだけで用事が成立する。


成立してしまうことが、怖い。


昼休み、同僚と並んで食事を取る。

天気の話。

ドラマの話。


私は相槌を打つ。

間違っていない。

でも、ここにも私はいない。


午後の業務。

数字。

画面。

チェック。


正しいことだけが積み上がる。

正しいから、迷わない。

迷わないから、心が動かない。


窓の外を見る。

駅前のビルが、遠くに見える。


昨日、立っていた場所。

数百メートル先なのに、ここじゃない。


胸の奥が、わずかに騒ぐ。


定時。


名札を外す。

首元が軽くなる。


バッグを持つ。

内ポケットの存在が、はっきり分かる。


私は駅へ向かう。


夕方の空気は、朝より重い。

仕事の匂いを含んだまま、街に溶けている。


視線を感じる。

一瞬。

遅れて逸れる。


今日は、肩をすくめない。


駅前のビルが近づく。

足が、ほんの少しだけ遅くなる。


――怖い。


それでも、止まらない。


ガラスに映る自分を見る。

整った輪郭。

落ち着かない目。


私は深く息を吸った。

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