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第十一話

私は、唇を噛んだ。


噛んだ、という感触だけが先にあって、痛みが追いつかない。

遅れて来るはずのものが来ないのは、心のほうがすでに固くなっていたからだと、すぐに分かった。


「話を聞くだけ」


その言葉は、柔らかすぎた。

柔らかい言葉ほど、人を深く引きずり込む。

私はそれを知っている。

知らないふりができるほど、無傷ではなかった。


何度も、同じところで足を取られてきた。

大丈夫だと言われ、安心して、気づいたら動けなくなる。

そんな経験ばかりだった。


それなのに。


この数日で、ひとつだけはっきりしたことがある。


私は、

引きずり込まれたくないくせに、

自分からどこにも入っていけないまま、

ずっと、何かを待っていた。


何を待っていたのかは分からない。

誰を待っていたのかも分からない。


分からないのに、

「待っていた」という感覚だけが、妙に正確だった。


その感覚が、胸の奥でひとつ、静かに息をする。

呼吸の音は聞こえない。

でも、生きているのは分かる。


「……私」


声が、かすかに震えた。

怖さの震えじゃない。

言葉が、ようやく自分の内側と繋がろうとするときの、あの震えだ。


受話口の向こうで、朝霧は急かさない。


「はい」


それだけ。

短くて、簡素で、余計な意味を持たない返事。


それなのに、その一言で胸の奥の緊張が、ほんの少し緩む。


喋っていい。

間違えてもいい。

そう言われたわけでもないのに、身体のほうが先に理解してしまう。


「……本当に、話を聞くだけ、ですか」


自分でも驚くほど、小さな声だった。

小さな確認。

小さな防御。


「はい。聞くだけで大丈夫です。

 無理に決める必要はありません」


即答だった。

迷いはないのに、押しつけがましくない。


駅前で保っていた、あの距離感。

一歩も踏み込まないまま、確かにこちらを見ていた距離。


私は、目を閉じる。


まぶたの裏に、この数日間の街が浮かぶ。

ガラスに映る、知らない顔。

すれ違う人の、必要以上に長く留まる視線。

それを受け止めきれない自分。

受け止めきれないまま、一日を終わらせる自分。


私は、どこにも行っていなかった。

顔だけが先に進んで、私はずっと同じ場所に立ち尽くしていた。


その置き去りにされ方が、

もう、耐えられなかった。


そう気づくまでに、数日かかった。

遅い。

でも、遅れたままでも、気づけたことは確かだった。


「……いつ、ですか」


口から出たのは、日程を問う言葉。

感情じゃない。

でも、それでよかった。


今の私は、感情をそのまま扱えるほど、器用じゃない。


朝霧の声が、わずかに明るくなる。

派手な喜びじゃない。

電球がひとつ、そっと点いたくらいの明るさ。


「ご都合に合わせます。

 お仕事終わりでも、休日でも。

 短い時間でも構いません」


私は、天井を見る。


白いだけの天井。

何も描かれていないのに、不思議と呼吸が楽になる。


日程が決まり、場所が決まる。

必要最低限の言葉だけが、淡々と積み上がっていく。


会話は長くならない。

それは、朝霧が空気を読んだからじゃない。

彼がまだ、「言葉で相手を動かす技術」を持っていないからだ。


技術がないぶん、余計な飾りがない。

飾りがないから、私は勝手に意味を盛らずに済む。


「それでは、当日。お待ちしております」


「……はい」


通話が切れる音。

画面が暗くなる。


静けさが、部屋に戻ってくる。


換気扇の低い音だけが続き、

遠くで車の走行音が、波のように揺れている。


私は、スマートフォンを膝に置いたまま、しばらく動けなかった。


何かが劇的に変わったわけじゃない。

電話をした。

話をした。

約束が、ひとつできただけ。


それだけ。


それだけなのに、

胸の奥が、ゆっくりほどけていく。


固く結んでいた紐が、

誰にも触れられない場所で、静かに緩み始める。


音はしない。

音がしないから、少し怖い。


気づいたらほどけていた、という変化が、いちばん怖い。


私は、テーブルの上の名刺を見る。


白い紙。

黒い文字。

人の名前。


朝霧。


駅前で名刺を差し出したときの、

あの不器用な角度が、はっきり思い出される。


あのとき私は、名刺をただの紙として見ていた。

“世界の入口”だと認めてしまったら、

怖くて触れられなかったからだ。


私は、ずっとそうしてきた。


怖いものを、意味のないものとして扱う。

人を。

言葉を。

チャンスを。


意味を持たせた瞬間、

手が届かないことが、はっきりしてしまうから。


でも、今は違う。


意味を持たせないようにしていた名刺が、

音になり、

会話になり、

約束になった。


そこまで来て、ようやく身体が追いつく。


目の奥が、熱い。


悲しいわけじゃない。

嬉しいわけでもない。

どちらの言葉も、今の感覚には合わない。


私はただ、

ずっと呼吸を止めていたのだと気づく。


数日だけじゃない。

もっと長い時間。

人生のあちこちで、何度も。


止めて、止めて、

止めたまま平気な顔で暮らしてきた。


止めていた呼吸が、今、戻ってくる。

戻るとき、身体は少し痛む。


涙が、こぼれた。


無理に出したわけじゃない。

目の奥に溜まっていたものが、

重力に従って落ちるだけ。


頬を伝う温度が、思ったより熱い。


私は顔を覆う。

覆っても、涙は指の隙間から落ちる。

肩が、かすかに震える。


泣くつもりはなかった。

泣いたって、過去が消えるわけじゃない。


それでも、涙は止まらない。


この数日、

私は“新しい顔”で街を歩きながら、

ずっと古い自分を置き去りにしてきた。


下を向く自分。

先に謝る自分。

好かれることでしか価値を測れない自分。

選ばれなければ終わりだと思っていた自分。


嫌っていた。

嫌っているのに、捨てられなかった。


だから、顔だけを変えた。

顔を変えれば、

古い自分も一緒に消えると思った。


消えなかった。


消えないまま、

街の視線だけが変わった。


視線が変わると、

古い自分は、さらに小さくなる。

小さくなるのに、消えない。


それが、苦しかった。


苦しさを、私は言葉にしなかった。

言葉にしたら、

もっと壊れる気がしたから。


でも今、

それは涙になって出ている。


涙は、言葉より先に正直だ。


何が欲しいのか分からないまま、

身体だけが、答えを出している。


私は、泣きながら笑いそうになる。


たった一本の電話で、

こんなふうになるなんて。


でも、あれは“たった一本”じゃない。

ここ数日、

私の身体に刺さり続けていた視線の針を、

一本だけ抜いた行為だった。


一本抜けただけなのに、血が出る。

それだけ、深く刺さっていたということだ。


私は息を吐く。

吐いた息が、少し震える。


涙が落ち着くころ、

胸の奥に、小さな空白ができる。


空白は、本来なら怖い。

でも今は、少しだけ心地いい。


詰め込みすぎていた場所に、

初めて言葉が落ちてくる。


――挑戦したかったんだ。


声に出す前に、確信が先に来る。

確信は、熱を伴わない。

ただ、事実としてそこにある。


挑戦したかった。

誰かに勝つためじゃない。

誰かを見返すためでもない。


ただ――


この顔で、

何も起きないまま生き続けるのが、怖かった。


怖い。


でも、

怖いと言えるようになったことが、少し嬉しい。


怖いと言えたら、

次にできることが増える。


私は、濡れた頬を手の甲で拭う。

拭っても、少し遅れてまた滲む。


それを、もう止めようとしない。


止めない。


止めない、という選択ができるのが、今夜の私だ。


私は立ち上がり、キッチンへ行く。

さっき使ったコップを洗う。

水の音が、現実をつなぎ留める。


指先が冷たくなり、

頭の奥が、少し冴える。


鏡は見ない。

見るには、まだ早い。


でも、いつか見る。

この顔を、逃げずに見る日が来る。


そう思えるだけで、今は十分だった。


照明を落とし、寝室へ向かう。

ベッドに腰を下ろし、靴下を脱ぐ。


足の裏にシーツの冷たさが触れ、

布が、そっと肌を撫でる。


横になり、天井を見る。


天井は何も言わない。

何も言わないのに、

そこにあるだけで、少し落ち着く。


私は呼吸を確かめる。


吸って、吐く。

吸って、吐く。


呼吸は、今夜の私の味方だ。


挑戦したかった。

その気持ちに、今日、遅れて気づいた。


遅れて気づくのは、悪いことじゃない。

むしろ、遅れてでも気づけたことが、

私にとっては初めての勝利かもしれない。


勝利、なんて言葉はまだ気恥ずかしい。

でも、気恥ずかしさが残っているうちは、

私はまだ、人間だ。


私は目を閉じる。


涙の熱が、まだ頬に残っている。

その熱が、明日になれば消えるかもしれない。


それでも、約束は残る。


約束があるというだけで、

夜は、少しだけ薄くなる。


息を吐く。


暗闇は、私を押し潰さない。


今夜の私は、

挑戦したいと思った自分を、否定しなかった。


それだけで、

十分だと思えた。

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