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第十話

私は、ほとんど無意識のまま立ち上がっていた。


考えたわけじゃない。

決めたつもりもない。

ただ、身体が先に動いた。


床に置いたバッグの取っ手を掴む。

革の感触が、指にやけに生々しい。


ファスナーを引く音が、部屋の静けさを裂いた。

刃物みたいに、一直線に。


中には、いつも通りのものが詰まっている。

手帳、ペンケース、社員証、財布、小さなポーチ。


変わらない。

私の生活は、何も変わっていない。


――それなのに。


いちばん奥に、異物みたいに挟まっている白。


折り目のついた、薄い紙。


指先が、迷うことなくそれを拾い上げる。

引き抜くと、軽い。


名刺だ。


角が、ほんの少しだけ潰れている。

バッグの中で、他のものに押された跡。


暗い部屋の光でも、文字ははっきり読めた。


アステラプロダクション

マネジメント部

朝霧 恒一


印刷された黒が、妙に冷たい。

触れば温度があるはずなのに、そう感じさせない。


私は名刺をテーブルの上に置く。

紙が、木目に吸い付くみたいに平らになる。


名刺は薄い。

息を吹きかければ飛びそうなほど。


それなのに、

この部屋の中で、いちばん重たい。


私はスマートフォンを手に取る。

画面を点ける。


――発信。


気づいたときには、指が動いていた。


考えていない。

でも、戻す動作もしない。


コール音が鳴る。


その単調な音を聞きながら、

私は初めて、自分が何も準備していないことに気づく。


言う言葉も、

説明も、

覚悟も。


何ひとつ用意していない。


耳に当てたスマートフォンが、少し温かい。

規則正しいコール音が、換気扇の低い音と重なって、

心臓の鼓動みたいな間隔になる。


速くも、遅くもならない。


逃げ場のないリズム。


コール音が切れた。


「……お電話ありがとうございます。

 アステラプロダクション、マネジメント部の朝霧でございます」


受話口の向こうの声は、仕事用だった。

整っていて、抑制が効いている。


それでも、

ほんのわずかに、呼吸の入りが遅い。


――予想していなかった。


そのことが、声の端から伝わってくる。


私は息を吸う。

喉の奥が、ひりつく。


「……夜分にすみません」


声が出たことに、少し遅れて気づく。

思ったよりも、落ち着いている。


「いえ。こちらこそ」


朝霧は、すぐに謝罪を受け取らない。

相手に負担を背負わせない言い方。


「差し支えなければ、

 どちら様でしょうか」


当然の確認。

でも、どこか慎重だ。


私は、テーブルの上の名刺を見る。


「……駅前で、名刺をいただいた者です」


それだけ言う。

名前は、まだ言わない。


一拍。


受話口の向こうで、

空気がわずかに変わる。


「あ……」


朝霧の声が、ほんの一瞬だけ素に戻る。

すぐに整え直されるけれど、

遅れは隠しきれない。


「……ありがとうございます。

 ご連絡、いただけるとは思っていなかったので」


驚いた、とは言わない。

でも、それ以上に正直な言い方だった。


私は名刺の角を、指で押さえる。


「突然、すみません」


謝っているけれど、

切る気がないことは、自分でも分かっている。


「いえ。

 こちらからお渡ししたものですから」


朝霧は、少しだけ言葉を選ぶ。

相手の出方を見ている。


「今、お時間は……大丈夫でしょうか」


“出たのだから話せ”ではない。

本当に、選択肢を残している。


私は、一瞬目を閉じる。


切ることもできる。

何もなかったことにもできる。


でも――


「……はい」


答えは、もう身体の中で決まっていた。


「ありがとうございます」


その一言で、

彼の内側の緊張が、わずかにほどけるのが分かる。


「今日は、

 具体的なお話を進めたいわけではありません」


朝霧は、最初に線を引く。


「もし、ご負担でなければ……

 一度、事務所でお話だけでもできたらと」


言い切らない。

誘導しない。


「もちろん、

 ご都合が合わなければ、

 このお電話だけで終わっても構いません」


その言葉を聞いて、

胸の奥が、静かにざわつく。


押されていない。

だからこそ、逃げづらい。


私は、しばらく黙る。


沈黙を破るのは、

朝霧ではない。


待っている。


待つことで、

これを“私の選択”にしてくれる。


「……少し、考えさせてください」


声が、かすかに震える。

それでも、逃げの震えじゃない。


「はい」


即答。


「それで大丈夫です。

 ご連絡をいただけただけで、十分です」


その言い方に、嘘はない。


私は、名刺をもう一度見る。


――芸能。


その言葉は、まだ現実にならない。

でも、

引き返せない場所に、足先だけがかかっている。


「……ありがとうございました」


「こちらこそ。

 では、失礼いたします」


通話が切れる。


スマートフォンを耳から離しても、

しばらく、そのまま動けない。


部屋は静かだ。


けれど、

私の中だけが、

ほんの少し、騒がしい。

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