第一話
夕方の駅前は、いつも色が濁る。
昼の名残の白がまだ空気に溶けきらないうちに、街灯の橙が割り込んでくる。どちらにもなりきれない光が、ガラスも金属も人の肌も曖昧に染め、輪郭だけを薄く残す。はっきりしない時間帯だ。何かが終わり、何かが始まる直前の、行き先を失った色。
改札を抜けた先のロータリーには、いつも同じ匂いが溜まっている。
排気ガスの重さ、コンビニの揚げ物の油、雨上がりのアスファルトの湿り気。それらが混ざり合い、冬の冷気が舌先に触れるように忍び込んでくる。人は多いのに、音は不思議なほど軽い。アナウンスは風にほどけ、靴音はタイルの隙間に吸われていく。耳に残るのは、自分の鼓動だけだった。
駅直結の複合ビル。その一階にあるカフェは、壁の大半がガラスでできている。
店内は、まるで展示ケースだ。外を歩く人と、内側のカップが、同じ距離で並ぶ。中にいる人間は、気づかないうちに「見る側」から「見られる側」へと立場を移される。選択肢はない。
私は入口から二番目の席に腰を下ろしていた。
端は落ち着かない。奥は逃げ場がない。だから二番目。自分がどこにも属していない感覚が、こういう些細な選択にまで滲み出るのが、どうしても嫌だった。
テーブルは小さく、天板には拭き跡が残っている。斜めから差し込む夕方の光が、それを薄い白として浮かび上がらせる。
カフェラテはもう冷めていた。泡は崩れ、ミルクの膜が頼りなく張り付いているだけ。飲み物というより、時間が経った証拠だった。
私はスマホを握っている。画面は開かない。
通知が来ないことが怖いわけじゃない。来たら来たで、胸がざわつく。指先は無意識にケースの角をなぞる。何かに触れていないと、身体の輪郭が曖昧になる気がした。
ガラスに、自分の横顔が映る。
照明と夕方の光が混ざり、輪郭は滲み、良くも悪くも「どこにでもいる人」になる。
目立たない顔。
美人でも、ブスでもない、という言い方は逃げだ。正確には、評価の対象にならない顔。褒める言葉を乗せる場所も、貶すほどの引っかかりもない。
髪はまとめた。癖が出ないように。
服は無難。失礼にならないように。
つまり、誰の記憶にも引っかからないように。私はずっと、そうやって生きてきた。
――遅い。
約束の時間は過ぎている。
五分。短い。責めるには足りない。でも、待つ側の心を少しずつ削るには、十分すぎる長さだ。
自動ドアが開くたび、外の音が一瞬だけ流れ込む。
風、靴音、笑い声、ロータリーのクラクション。
閉まると、また薄くなる。
その繰り返しの中で、不意に空気の流れが変わった。
ガラスの向こうで、人の動線がわずかにずれる。
視線が点で揃う。
誰かが来るときの、あの予兆。
背の高い男が現れた。
歩き方に迷いがない。人混みを避けるのではなく、周囲が避けるのを当然の前提にしている足取り。自分が止まらない限り、世界は動くと思っている。
そして――彼の腕には、女が絡んでいた。
最初に目に入ったのは脚だった。
細く、長く、余分がない。ヒールでも歩幅が崩れない。
次に髪。艶、流れ、毛先まで意識が行き届いている。
最後に顔。完成度の高い顔。
――この人は、見られることを前提に生きてきた。
女は、自分が視線を集める存在だと知っている。
知っているから、崩れない。
姿勢も、顎の角度も、笑うタイミングも、すべてが「見せる側」の文法でできている。
男が、私の前で立ち止まる。
距離が近い。
背の高さも、肩幅も、記憶よりわずかに大きく見えた。
視線が合う。ほんの一瞬。
男はすぐに目を逸らし、同時に女の腰から手を離さない。
「よ」
挨拶というより、合図だった。
声を聞いた瞬間、胸の奥が静かに沈む。
名前はまだ出てこない。でも、分かる。
この声を、私は何度も聞いてきた。
夜の駅。電話越し。眠たげで、呼び出した側の自覚がない声。
男は、私が立ち上がるのを待たずに言った。
「待った?」
謝罪を含まない問い。時間を奪ったという感覚が、最初から存在しない。
「……ううん」
反射的に首を振る。
その仕草が、昔と変わっていないことが、ひどく腹立たしかった。
私はいつも、「怒っていい場面」で怒らない。
女の視線が、私をなぞる。
まず顔。次に服。最後に全体。
ゆっくり、遠慮なく、店頭の商品を見るように。
「……あー」
女が、小さく声を漏らす。
それだけで、胃の奥が冷えた。
男は気づいていない。
あるいは、気づいていても、意味を持たせていない。
「入ろうか」
男は女の肩を軽く引いた。
私に向けた言葉ではない。
私はそこにいる「人」ではなく、手続きを成立させるための要素みたいに扱われている。
カフェの中へ。
自動ドアが開き、外の冷気が流れ込み、そして閉まる。
遮断された瞬間、店内の暖かさが、急に現実として肌に張りついた。




