思い出のパンツの下で
決闘の場所は東京ドーム。猶予は一か月弱。夏休み真っ只中の七月三一日に開催が決定した。事態はもはや理解不能な域にまで達していた。いや、一から十までこの展開に理解できることなど一つもなかったのだ。いくら俊介の会社に財力があるとはいえ、下着の出来を競うためだけにドームを貸し切ってどうするのとあかりは心の中で猛烈なツッコミを入れた。しかし、あの教室で起きた狂乱はSNSで瞬く間に拡散され、今や日本中がこの「世紀のパンツ対決」を注視していた。
高額なチケットは発売開始から数秒で完売し、転売サイトでは海外旅行に行けるほどのプレミア価格がついているという噂まで流れている。
ルールは極めてシンプル、かつ異常だった。あかり、ゆるり、志保の三人がモデルとなり、視界を遮断した状態で、どちらが作ったか知らされないままにパンツをはく。その瞬間の表情や反応を五人の手芸部部員が採点し、ポイントが高い方を勝者とする。総合点ではなく、三人それぞれのマッチで二勝した方が勝利者となり美咲にパンツを捧げる。表情精査が採点の鍵なのに、なぜ手芸部なのかあかりにはわからなかった。
この勝負で「評価対象」という脇役に据えられてしまったゆるりと志保は、カンカンに怒った。しかし、俊介の会社から「一生分、最高級のパンツを無償提供する」という破格の条件を提示され、二人はしぶしぶ、しかし鼻息荒く承諾した。あかりにも同様の申し出があったが、「お兄ちゃんのパンツで間に合っているので」と丁重に、かつ冷ややかに断った。
(でも……お兄ちゃんは、いつまで私に執着するつもりなんだろう)
そう考えると、胸の奥を小さな針でちくんと刺されたような、奇妙な痛みが走った。
◆◇◆◇◆
夏休みに入ると、運命の対決の日がいよいよ迫る。
健太は一日中部屋に籠もり、パンツ作りに没頭するようになった。
毎年の光景ではあるが、今年は熱量が違う。あかりはある日の午後、吸い寄せられるように健太の部屋へ入り、黙々と動く彼の手つきを眺めていた。
「あかりが俺の作業を見たいなんて、珍しいじゃないか?」
健太はミシンの手を止めずに言った。この部屋に入らなくなったのは、あるいは入れてもらえなくなったのはいつの頃からだっただろうか。あかりは古びたベッドの端に腰を下ろし、ぼーっと室内を見渡した。幼い頃の記憶にある懐かしい匂いと、見たこともない最新の裁縫道具。過去と現在が混ざり合った空間に立たされた異邦人の感覚だ。
あかりがふと視線をあげると、額縁に収められた子供用のパンツが見えた気がした。自分は疲れているのだと思い、目をよく擦りもう一度眼を大きく開いて確認した。そして間違いなく子供用のパンツであることを確認し軽い目眩を覚える。
「とっくに捨てたと思ってたのに……。こんなところに……?」
あかりの視線に気づき、健太も動きを止めて額縁を見上げた。
「ああ。俺はいつの日かあれを超える。だから、高知君との勝負には絶対に負けられない」
「捨ててよ」
あかりは即座に返答した。
「え?」
「妹が履き潰した子供用のパンツを額縁に入れて飾るなんてバカじゃないの? 変態。今すぐ捨てて!」
健太はあかりの冷徹な言葉を受け、しばらくの間、困ったように目を泳がせていた。だが、やがて静かに、しかし力強く首を振った。
「毎朝これを見て誓うんだ。俺もあの時の老人のように、困っている人にさりげなくパンツを差し出せる男になりたい。……時々、そう思いながら取り出して触ってみると、あの頃のあかりの匂いと温もりが蘇ってくるんだ。今こうしてあかりが元気で生きているのはパンツのおかげだと。だから俺はもう一度、あかりの人生を変えるパンツを作りたいんだ」
「やめて。気持ち悪すぎて本当に鳥肌が立ってきた」
あかりが腕をさすりながら告げると、健太はそれ以上何も言わず、最初からあかりなどいなかったような集中力で布地に向き合い始めた。
「お兄ちゃん」
ぽつりと呟くと、健太から「ん?」と生返事が聞こえる。
「……この騒動が終わったら、あの場所に行ってみない?」
「あの場所?」
健太は顔を上げ、あかりがまだ壁のパンツを眺めていることに気づいて、肩を回して筋肉をほぐす。
「あの場所には、もうおじいちゃんもおばあちゃんもいないぞ。実家も人手に渡ったし」
「知ってるよ、そんなの」
健太からの返事は、すぐにはなかった。ミシンの駆動音だけが部屋に響く。
「……そうだな。あのおじいさんに俺のパンツをはいたあかりを見てもらえるかもしれない……。行ってみるか」
「意味のわからないことをさらっと言わないで。あとやっぱり気持ち悪い」
部屋には相変わらずミシンの音が響いている。
「お兄ちゃん」
再びあかりが口を開いた。今度は健太は答えず、ただ耳だけをこちらに傾けている。
「……もし、戦いに勝ったら、美咲先輩と付き合うの?」
「いや、そこまでは考えてない。あかりも知ってるだろ、美咲ちゃんは高嶺の花だ。俺みたいなパンツバカが……」
健太の言葉を遮るように、パン、とあかりが勢いよく手を叩いた。乾いた音が室内に響き、健太が驚いてミシンを止める。
「蚊。いたから」
あかりは短く答え、ただ赤くなった掌を見つめた。
「お兄ちゃんに彼女ができたら、私も……彼氏、作るかもね」
「いや、俺に彼女なんてできないかもしれないぞ」
健太はまた作業に戻っていく。あかりはそういう関係になってもいいと言っていた志保の言葉を思い出し、慌てて意識の底へ沈めた。
「……ねえ、『みにくいアヒルの子』って、最後は白鳥になるでしょ?」
「なんだよ、唐突に?」
「でもさ……本当は白鳥になんかになりたくなくて、ずっとアヒルのままでいたかったかもしれないよね」
健太は作業の手を止め、自分の指先をじっと見つめた。
あかりの言葉を反芻する。それは白鳥になって遠くへ飛び去ってしまう物語の結末への、密やかな拒絶のように聞こえた。
「……そんな話だったか? 俺はアヒルとして白鳥になりたいな」
健太の間を外した答えにあかりは黙ったままだった。
振り向いて欲しい。でも振り向かれては困る。あかりは目尻に溜まった雫を拭いとった。
彼女は再びミシンを動かし始めた健太の少しだけ広くなった背中を、蝉時雨がひぐらしの声に変わってもずっと見つめ続けていた。




